■桜田儀兵衛の碑について
 桜田儀兵衛は、1832(天保3)年、銭座跡村にて生まれました。
 「解放令」が発布された1871(明治4)年、儀兵衛は39歳にして銭座跡村北組5人頭筆頭となり、1873(明治6)年には戸長(現在の町・村長)となりました。
 その後の儀兵衛の活躍はめざましく、1877(明治10)年には貧民救済のために家宝を売って給付金を出し、倉庫を開放して救助を行い、柳原小学校建設のために土地を提供し、費用を立て替えました。
 1886(明治19)年に全国でコレラが大流行して15万人もの死者が出た時には、念入りに地元を大掃除し、他の地域よりもコレラ患者の発生を少なくしました。
 その他にも、鉄道敷地立ち退き交渉、戸長役場の確保、皮革工場へのドイツ人技師の招き入れなどにより、政府や京都府などから高い運営能力を評価され、世に被差別部落の自治の心意気・すばらしさを示しました。
 1889(明治22)年、市町村制施行に伴い「柳原町」が成立したとき、町民はこぞってこれを祝い、風船をあげ、爆竹をならし、様々なお祝いの催しを行いました。
 儀兵衛はこのように、地元住民の生活改善・向上のために、おしみのない援助と実践を行いました。
 その4年後の1893(明治26)年11月7日、町長として手腕をふるった儀兵衛が亡くなりました。享年61歳でした。
 1895(明治28)年、町民は儀兵衛をしたって顕彰の石碑を建てました。

(桜田儀兵衛の碑は、現在、柳原銀行記念資料館の入り口にあります。)
桜田翁(おう)は山城国(やましろのくに)紀伊郡柳原町のひとなり。
資性(しせい)篤実(とくじつ)、襲業(しゅうぎょう)以来、桔据(ききょ)勉励(べんれい)、家道大いに興(おこ)る。
明治維新百度茲(ここ)に革(あら)たむ。翁(おきな)涕泣(ていきゅう)して衆(しゅう)に告げて曰(いわ)く、天恩(てんおん)広大にして我輩(がはい)生れて聖生(せいせい)に遭(あ)う。
(あ)に陋習(ろうしゅう)に安じて可(べく)ならん乎(や)
(せん)しく先(ま)ず風俗を矯正(きょうせい)し蒙昧(もうまい)を啓発し以(もっ)て聖明(せいめい)の恩に答(こた)うべしと。
(いくば)くも無く挙(あ)げられて里正(りせい)となる。
本町(ほんまち)、民戸千有余にして貧者半ばに居(お)り、如(しか)うるに習俗鄙陋(ひろう)なるを以(もっ)て統治易(やす)からず。
(おきな)百方(ひゃっぽう)規画(きかく)し、首(はじ)めに学校を設け就学を誘掖(ゆうえき)せしむ。
(し)無き者は衣服・器具を給(きゅう)し、又父兄を訓戒(くんかい)して世道の要(かなめ)を講ぜしむ。
(こ)の如(ごと)き者数年、民族大(おおい)に改まる。
(おきな)、又本町(ほんまち)公費常に償(つぐな)わざるを憂(うれ)い、別に補給の法を設けて、衆(しゅう)に課せず。
(ある)は道路・溝渠(こうきょ)を開修して陋巷(ろうこう)の湿隘(しつあい)の患(わずらい)を除き、或(ある)は天災・疫癘(えきれい)(あ)らば輒(すなわ)ちこれを救恤(きゅうじゅつ)す。
凡百(ぼんぴゃく)の公事は皆率先して資(し)を損(す)て、面(めん)して自ら奉(ほう)ずること倹素(けんそ)にして修身絹帛(けんぱく)を纏(まと)わず。
職に居ること二十余年、終始一日の如(ごと)く治績(ちせき)見るべし。
官、数(しばしば)銀盃及び木盃を賜(たま)いてこれに償(むく)う。
今茲(この)春、病を以て職を罷(や)め、幾(いくば)く無くして歿(ぼっ)す。
(おきな)は通称儀兵衛、一男三女有り。
男は繁松、嗣(あとつぎ)にして亦(ま)た能(よ)く父の志を継ぎ、女皆他に適(ゆ)く。
(おきな)の死するや郷人(きょうじん)の哀惜(あいせき)すること父母を喪(うしな)うが如(ごと)し。
敬慕の余り、将(まさ)に石を建て功を不朽(ふきゅう)に伝えんとす。
(ほか)、翁(おきな)との交わり久しきを以(もっ)て銘(めい)を請(うけたま)わる。
(よっ)て事実の梗概(こうがい)を叙(じょ)し、且(か)つこれに銘(めい)して曰(いわ)く、

普天率土(ふてんそっと) 誰か王臣(おうしん)に非(あら)ざらん 時に聖世(せいせい)に遭(あ)
百度茲(ここ)に新たなり 翁(おきな)感泣(かんきゅう)し 首(はじ)めて報効(ほうこう)を期す
(ろう)を除き蒙(もう)を啓(ひら)き専(もっぱ)ら明教を重んず 己れに薄く
人に恤(めぐ)み 郷党(きょうとう)徳に懐(なつ)く 歴歴たる其の積 廿載(にじゅっさい)の職 鳧水清澈(ふすいせいてつ)にして 永く豊碑(ほうひ)を存せん

 京都府紀伊郡長正七位
  荒井公木 撰(えらび)(ならべて)(かく)
≪「崇仁歴史マップ」へ