■銭座跡村について
 1698(元禄11)年、京糸割符いとわっぷ仲間は、奉行所に銭鋳造の許可を願い出ました。
 七条高瀬川ぎわの6400坪の土地に許しが出て、1700(元禄13)年2月13日から寛永通宝(荻原銭・おぎわらせん)の鋳造を始めました。
 1707(宝永4)年、幕府は鋳造を宝永通宝(大銭)へと変更しましたが、宝永通宝が不評であったため、1709(宝永6)年1月23日に鋳造をやめてしまいました。
 銭を鋳造した跡は、銅気が多く耕作ができないため、永らく土地が放置されていました。
 1731(享保16)年11月に天部村年寄・源左衛門と六条村年寄・与三兵衛は、京糸割符仲間が手放した銭座場跡に新しい村を開発することを願い出ました。
 この村が銭座跡村と呼ばれ、現崇仁学区の南部の始まりとなりました。
(銭座場跡の史跡は、現在、柳原銀行記念資料館の敷地内にあります。)

戦後の崇仁南部の改良事業工事で発見された
銭を造るときに使用されたるつぼ
糸割符いとわっぷ仲間とは
 江戸時代初期、1604(慶長9)年から1655(明暦元)年まで続いた糸割符制度にもとづき、ポルトガル船の輸入生糸を独占的に一括購入し、国内の商人に売ることができた特定の商人たちのことです。
 いわゆる五ヶ所商人と呼ばれるもので、長崎、京都、堺にあり、その後1631(寛永8)年、江戸、大坂の商人が加わりました。
 日本側が輸入生糸の価格を決定していましたが、糸割符仲間が維持できなくなり、制度廃止後自由貿易となって貿易の主導権は外国側に移りました。

宝永通宝(左)と
寛永通宝(荻原銭)(右)

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