六条村小史

山本尚友


1、鴨川の風景


 京の町の東を南北にながれる鴨川は、そこに都を定めたとき横たわる青龍にみたてられたように、京を守り外界とへだてる境界であった。普段そこでは魚がすなどられ、着物を洗う女たちが群れ集う日々の生活が営まれていたが、いったん疫病や飢饉がおきると死屍が累々と横たわり、数をもしれぬそれが川の流れを塞ぎとめることすらあった。またそこは人の集う場所でもあった。さまざまな見世物に人が集まり、時には河原に数十丈の桟敷を組んで猿楽の勧進興行がもようされた。河原に人を集めるものはそれだけではなく、時折そこで行われた処刑にも見物人がおしよせた。
 天皇の権力が強大であった古代の律令体制下では、刑罰の執行には物部という部民があたり、都の東西の市の広場でおこなわれたが、各地に寺社や公家の荘園がつくられて天皇の権力が衰えていくと、物部にかわってもと罪人であった放免がそれをおこなうようになり、もっとも重い刑罰である死刑は担当の公家がその命令書を書くことを嫌ったため、行われないようになった。
 しかし、東国の鎌倉に武士の政権が成立して、天皇の政権を牽制するために、鴨川をわたった六波羅に六波羅探題がおかれるようになると、そこに詰める武士たちの手によって死刑がおこなわれるようになった。そして、その武士たちが処刑の場として選んだのが、鴨川の河原であった。必ずしも場所が正確に決っていたわけではないが、北から一条、四条、六条の各通りが鴨川とまじわる河原でおおくは行われ、それぞれの河原には、処刑される罪人に引導をわたす時宗の僧の住まう道場があった。北から一条道場 (寺号不明) 、四条道場金蓮寺、六条道場歓喜光寺と呼ばれていた。
 時宗は伊予の武士出身の一遍が開いたものだが、鎌倉時代にうまれた仏教の新宗派のなかでも最も庶民的な宗派であり、一生を旅で過ごした一遍のもとには多くの庶民、なかでも当時の社会では非人とよばれて社会から排斥されていた乞食たちも多くつき従っていた。京に建てられた時宗道場のまわりにも多くの乞食たちが群れ集まっていた。六波羅の武士たちは刑罰の執行を手伝うものを、この乞食たちのなかから選び出し、それに命じた。この頃、非人と呼ばれたのは乞食だけでなく、当時は業病として恐れられた癩の病いにかかった者や、囚人なども非人と呼ばれていた。つまり乞食や癩者などは、単に貧しかったり病気であるだけでなく、そのことによって「人にあらざる」者になったと当時の人々は考えていたのであった。
 その非人に刑罰の執行を手伝わせることは、その頃広くおこなわれていたことであった。さきにふれたように天皇の権力そのものが、律令体制が崩壊してその権力機構が維持できなくなると、刑期をおえた囚人である放免にそれを行わせるようになっていた。放免は、非人の一員であった。そして、律令体制の崩壊により力をたくわえた延暦寺や興福寺をはじめとする大社寺は、その領地にたいし領主として振舞うようになり、刑罰の執行をおこなう必要も生じてきた。その社寺等に使われたのもやはり非人であった。祇園社の犬神人はそのなかでも有名だが、はじめは祇園社の近くにいた乞食が命じられて境内の動物の死骸などをかたづける仕事を行っていたが、祇園社の勢力が強くなるとともにその領地内の犯罪人の逮捕や刑の執行などにたずさわるようになっていった。この非人がおこなった犯罪人の逮捕や刑の執行の仕事をあわせて警刑吏役とよぶが、武士の警刑吏役をつとめたのが一条・四条・六条の時宗道場の近くにいた非人たちであった。

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2、六条村のはじめ


 この非人たちはいずれも鴨川の河原に住みついたために、のちに河原者と呼ばれるようになるが、河原者たちは警刑吏役にしたがうとともに牛や馬の皮をなめす仕事にもしたがった。動物の死骸を取り片づける仕事は「きよめ」とよばれ、これも当時の非人が広くおこなっていた仕事のひとつであったが、その死骸から皮をはいでなめすことを河原者たちははじめたのであった。これは、武士がおこり戦乱が各地に広がるにしたがって、戦争の道具として牛や馬の飼育がさかんになると同時に、武具として鎧・甲冑・馬具・皮足袋など皮革製品の需要がたかまり、河原者たちがそれに応じたものであった。
 このように、警刑吏役と皮革業という安定した職業を手にした河原者たちであったが、その仕事がもとの出自に深くかかわるものであったために、社会からの賤視と排除はなくならなかった。しかし、鎌倉時代の京都では祇園社の犬神人が京都の非人を支配しており、河原者たちも犬神人の支配下にあったが、河原者たちは武士とのむすびつきを強めることによってその支配から脱して、独自の集団として成長することができた。このような河原者のつくった村のひとつが六条村であった。六条村という名前がはっきりと使われだすのは江戸時代にはいってからであり、その前には六条郷というような呼ばれかたもしているが、ここではとりあえず六条村の名前をつかうことにする。
 六条村は六条道場歓喜光寺のすぐ東に位置して、鴨川の西岸の河原地にあった。村がつくられた正確な年代はわからないが、歓喜光寺が河原院跡に建てられたのは1299年 (正安元) であり、村の成り立ちの経緯からいってこれよりも後の時代に村がひらかれたものと思われる。ほかの河原者村と同様に鎌倉幕府さらには室町幕府に奉仕していたものと思われるが、政権がかわっても警刑吏役および斃牛馬処理・皮革の仕事は引続きおこなうことを認められ、戦乱の世がふかまるとともにその皮革の需要はますます増して村は発展していった。
 しかし、残念ながらこの時期の六条村にかんする史料はほとんど残っておらず、わずかに1345年 (興国6・貞和元) に内裏に盗みにはいた者を斬首したのをはじめ、たびたび六条河原において処刑が行われたことと、1380年 (天授6・康暦2) の「東寺領東西九条算用状」 (『教王護国寺文書』 )に同寺領の田地を六条河原三郎二郎という者が耕作しているのを知るのみである。このうち1441年 (嘉吉元) に六条河原より獄門の列を警護した河原者は、千人が兵具をおびてたちならんだと伝えられており、数字には誇張があるものの当時の京の河原者の勢力がかなりのものであったことを伺うことができる。

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3、江戸時代の六条村


 戦乱の世もようやく統一のきざしをみせ豊臣秀吉が京の支配者になると、それまでに各地にひろがって、警刑吏や皮革業を営んでいた者たちを、秀吉の政権は「皮多」と呼ぶようになり、六条村もその支配下にはいると同時に、その居住地の権利を秀吉によって保障された。これを保障した1590年 (天正18) の前田玄以の安堵状によれば、六条河原にあったその土地の広さは二町で、荒れ地であったために検地も行われなかったが、天部村 (現在の東三条部落) と六条村の支配する年貢の免除された土地であった。天部村とは四条道場金蓮寺の近くにひらかれた村で、京の河原者村のなかでももっとも有力な村であった。そして、この前田玄以の安堵状にあるように、天部村は半分の一町歩を中世以来支配する権利をもっており、六条村の実質的な広さは一町歩であった。
 居住地にたいする年貢の免除というのは、各地の皮多に認められた権利で、警刑吏役あるいは皮革上納の見返りとして与えられものであり、その権利を認められるということは同時に、従来勤めていた警刑吏役をひきつづき勤めることを命じるということであった。室町幕府から信長、秀吉、そして徳川幕府と、その主人は変わりながらも六条村は刑警吏役を担いつづけ、江戸時代になってもその地位にかわりがなかった。そして、斃牛馬処理の仕事は、それぞれの村の処理圏を皮多村間で「草場」として取り決め、たがいに権利をおかさないようする慣行がすでに中世の末頃から芽生えていて安定した仕事となっており、皮革業も江戸時代の初頭は戦乱がおさまって間もないことから、武士達は軍備におこたりがなく、依然として好調であった。
 徳川幕府は京都周辺の皮多村を支配するために、あらたに下村氏を皮多頭にとりたて、その指揮の下で京都・滋賀・大阪の皮多村に二条城の掃除役を命じた。下村氏は天部村の出身とつたえられているが、自身は京中に住んで幕府から旗本なみの120石の扶持を貰うという破格の待遇をうけていた。下村氏が支配した皮多村は、多いときで山城・近江・摂津の52カ村にのぼったが、ほとんどの皮多村は実際には掃除役をつとめず、京都の周辺に位置した六条・天部・川崎 (現在の田中部落) ・北小路 (西三条部落) ・蓮台野 (千本部落) の5つの皮多村に人夫銭をわたし、かわりにこの五カ村から人夫がでて二条城の掃除を行なっていた。刑警吏役も同様で、五カ村以外の皮多村は自分の村の近所で刑の執行があるときにはその番役などに動員される以外はこれと関係せず、日常的に京都奉行のもとで刑警吏役の執行にあたったのは六条村をはじめとした五カ村であった。

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4、六条村の仕事


 江戸時代の六条村は鴨川の西岸の五条から六条の河原地にあって、村といっても農業にはたずさわっておらず、村のなかに皮張り場があるほかは家が建ちならぶという実質的には町の景観をもっていた。その初期の人口は不明であるが、1671年 (寛文11) から翌年にかけて他村よりの移住者により九軒町とよばれる町が作られるような余地がまだあったことから、100戸には満たない規模の村であったとおもわれる。その仕事は、死んだ牛馬の処理をする斃牛馬処理と皮革業が中心であり、斃牛馬処理と皮革業はたがいに関連した仕事であった。
 自分の持ち場で斃れた牛馬の死骸を取得する権利を草場と呼んだが、その草場をもつものは、皮多村の中でも小数の者にかぎられていた。京都は商工業の中心地であり、人や品物の運搬のための車屋が軒をならべ、そこにはたくさんの牛や馬が使われていた。また、二条城や京都町奉行所そして京都全域にちらばっていた武家屋敷にも、おおくの馬が繋がれていた。六条村の草場がどのように広がっていたのかは分からないが、おそらく京都の市中を中心に草場を持っていたものと思われる。六条村の草場で牛や馬がたおれると、牛馬の持ち主より六条村に連絡がきて、その草場の持ち主が手下をひきいて牛馬をうけとりにいった。死んだ場所が遠い場合には、そこでさばいて皮だけを持ち帰ることもあったが、おおくは村に持ち帰り鴨川の河原にあった皮剥ぎ場で解体し、皮は洗って塩漬けにした。
 江戸時代も中期以降になると、大阪の渡部村や播磨の高木村などで上質な皮なめしの技術が開発され、近畿地方の生皮の多くはそこへ集められてなめされる体制ができあがっていた。六条村の皮も水運によって大部分は渡辺村へ回送されており、また渡辺村の皮商人の手代という人物も住み着いていた。六条村で独自に皮なめしをおこなっていたのは、太鼓に使う革や後にのべる雪踏の裏革、そして雪踏の鼻緒に用いる鹿革などであった。このうち鹿革については、1723年 (享保8) に八幡の品手村で昔から男山八幡宮の神人として鹿革の製造にたずさわっていた白革師より、六条村や天部村で行なわれていた鹿革製造を禁止するよう奉行所に訴えがあり、2年におよぶ審理ののちその禁止が奉行所より言い渡された。これに困った六条・天部の鹿革業者や京中の足袋屋などが再三奉行所に懇願し、細工物の材料としてだけつかうことを条件に、1731年 (享保16) になってようやく製造再開がゆるされた。

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5、2つの公役


 このような仕事のほかに、刑警吏役と二条城掃除役が公役として六条村にかされていた。これは、公の役であり義務として一種の税でもあった。その仕事を夫役人足と称したが、二条城掃除役には年に227人の人足を出し、刑警吏役は仕事の種類によって出す人足の人数がちがった。おなじ死刑でも、磔刑には120人、火罪には140人、獄門は80人、死罪は19人、入墨刑は10人などで、これを天部村と折半して六条村と六条村配下の北小路・蓮台野両村より出した。これらの刑は多いときで年間に70件、少ないときで一件とその数は一定していなかったが、だいたい年平均20数件であった。またこれに付随して、年2回の牢屋敷の掃除にあわせて60人、市中の警備などの臨時の動員にもそのつど駆り出された。
 しかし公役といっても、先きにもふれたように二条城掃除役については六条村をはじめとする京五カ村は、それ以外の村から人夫銭をもらってそれを代行する立場にあり、六条村にとってはこれも一種の仕事であった。五カ村以外の皮多の二条城掃除役の夫人足は約2,400人、これを単純に五で割っても480人で、六条村の負担した掃除役の倍ほどの人足賃が六条村にはいってきた。また、刑警吏役についても六条村の中でこれを税として負担する者と、実際に雇われて人足にでるものは違う人間であり、村から雇われて人足に出るものにとってはやはりこれも仕事であった。そして、時代が下がるにつれてそれに従う機会が増えたためであろうか、刑警吏役にたいして奉行所より年間300両の金が天部・六条村にたいして下付されており、六条村にとって刑警吏の仕事は充分に一個の職業であった。
 1708年 (宝永5) 7月に下村家の三代目文六が死去すると、幕府はその弟が文六の跡目をつぐことを許可せず下村家は断絶、それにともなって二条城掃除役も免除となった。課役のひとつが免除されたわけであり、皮多身分の者にとっては歓迎すべきことであるはずだが、1年以上たった1709年 (宝永6) 9月に六条村ほか五カ村の年寄は連名で、あらたに牢屋敷の外番役を二条城掃除役をつとめていた村々に命じてほしいと嘆願、それが認められて牢屋敷外番役があらたに公役として課されることになると同時に、下村氏にかわって天部・六条の両村が頭村として他の村々を支配することになった。自分から課役を勤めることを申し出るという一見理解しがたいこの事件も、公役が仕事となっている五カ村の特殊事情が引き起こしたものであった。
 また、このような仕事にくわえて、1708年 (宝永5) より京中の見回り役が、そして1720年 (享保5) よりは犯罪人の逮捕が六条村ほか五カ村に命じられ、それまでの刑吏役に加えて警察の役割もかねることになり、役人村と通称されるようになった。

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6、六条村の住人


 あらためていうまでもなく江戸時代は身分社会であり、すべての人は何らかの身分に属して、厳しく上下関係が定められていた。六条村は皮多身分に属したが、その呼称は江戸時代も中ごろの元禄時代を過ぎたころから、それまで徳川幕府の内部でもっぱら使われていた穢多という呼び名が全国的に用いられるようになり、京都でも公の場では穢多とよばれるようになった。そして、この穢多身分のなかも、いくつかの身分にわかれていた。六条村には年寄、組頭、小頭そして手下の四つの身分があった。年寄は徳川時代のはじめより嘉兵衛家が代々勤めていたが、元禄時代頃より久左衛門家がこれに加わった。また、六条村の支配権の半分は天部村の与三兵衛家がもっており、与三兵衛家も六条村の年寄であった。このほかにも、嘉兵衛家の縁戚であった徳左衛門家と三右衛門家が一時年寄役を勤めた時期もあったが、長くはつづかなかった。
 年寄は村役人として村を支配すると同時に、奉行所への願いごとや他村との紛争がおこった時には村の代表としてその先頭にたって奮闘した。天部村の村年寄は数もおおく、年代によって年寄家も変化しているが、六条村の場合は固定しており、かなりの強い支配権をもっていたものと思われる。年寄は幕府からおりてくる触書を配下のものをよびあつめて読み聞かせたり、年頭には村の掟を読み上げてそれを守るよう村民に命じた。また、年一回8月から9月にかけておこなわれる宗旨人別調の作成は大事な仕事で、一人ひとりに調印させてそれを奉行所に提出した。だが、年寄として最も重要な仕事は、奉行所の命をうけて犯罪人の処刑やその捜索にあたることで、そのような刑警吏役を勤めるときには、必ず年寄がその現場に立ち会わなければならなかった。
 この年寄の下に30人の組頭がいて、その組頭の下に村の住人が手下としてしたがっていた。組頭になる家は固定されており、その内から2名の者が月番をつとめ、村入用などの取り立てにあたった。また、この他に3名の小頭がいたが、これは年寄によって選任され、日給を給される立場にあった。年寄は各家より地料を取り立てて、それを自己の取り分としており、組頭は自分が所有する家作の地料を免除されることで、給与のかわりとしていることから、年寄と組頭は村役人の地位にあったが、小頭はそれに雇われる立場にあったものと思われる。
 一般の住人は手下と呼ばれていたが、この手下にも家持ちと借家の別があった。家持ちは「手下役人」とよばれていたように、一人前の村民として公役をつとめる義務をもつかわりに一定の発言権も保障されていたが、借家人は地料をおさめるのみで公役をつとめる義務はなかったが、村政へ関与することも出来なかった。家持ちと借家人の割合は、1704年 (宝永元) の時点で家持ちが39戸・213人、借家が129戸・519人で、1対2となっていた。刑警吏役のうち実際の首切りあたるものを「又次郎」とよんだが、天部村の場合は借家人が又次郎役をおこなっており、人足として二条城の掃除や刑警吏役に実際に出ていたのは、手下のうちの借家層であったと思われる。
 六条村の支配組織と身分は以上のようなものであったが、そのもっとも大きな特徴は刑警吏役あるいは牢屋敷外番役という公役を軸にそれが構成されていることである。通常の村では庄屋とそれを補佐する肝煎が村役人を構成していたが、六条村では年寄が一般の村の庄屋にあたったが、肝煎に相当する役がなく、また一般の村民は手下という名でよばれており、年寄の強い権限をうかがわせている。そして、他の村では村民の代表として、年寄や肝煎を牽制する立場にあった組頭も家格が固定していて、村民を代表する位置にはなく、そのような性格は弱かった。つまり、強い権限をもつ年寄のもとに、公役を勤めるための組織がそのまま村の組織となっていたのである。

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7、村の移転と新村の開発


 このように、六条村は刑警吏役と皮革業という安定した仕事をもち、年寄のもとに非常に厳しく統制された村であった。知り合いを宿泊させるようなことも無断ではできず、年寄に申し出てはじめて許された。見知らぬものが村に迷い込んだときには年寄が取調べ、不審な点があれば奉行所に届けでた。そして村内で失踪者があり捜しても見つからないときは親族にその財産をひきとらせ、死んだものに縁者がないときはその財産は檀那寺か本願寺に永代経料として寄付した。また、さまざまな村の掟があったが、そのなかでも特に厳しかったのは火事をだすことで、火を出したものはその日のうちに村から追放となり、村へ帰ることはなかなか許されなかった。
 このようにそれなりにおだやかな生活を営んでいた六条村に、思いもかけなかった事態がおそった。1707年 (宝永4) に、奉行所からその居住地を移転するよう命じられたのである。六条村の領主は京都市東山にあった妙法院であったが、ここを新しく開発したいという町人の申し出をうけて、妙法院が奉行所に願い出たものであった。新しい居住地は妙法院領のなかから選ぶことになったが、七条通りの南にあった柳原庄という村の一部で、東西と南を高瀬川に北を御土居に囲まれた三角形の土地が移転地として選ばれた。六条村は刑場や牢屋敷などから遠いこと、移転先が窪地で水がつきやすことを理由に難色をしめしたが、3尺の地上げをすることと移転料として銀1,050枚を受け取ることを条件にそれを承諾した。当初に示された移転料は500貫であり移転料の面では満足できたものの、六条村が移転を承諾するさいのもうひとつの条件であった、これまでの倍の広さの移転地を確保するという希望はかなえられなかった。
 六条村の当時の人口は188戸・789人を擁していた。参考までに他の京五カ村の人口をしめすと、天部村138戸・590人、川崎村44戸・233人、野口村46戸・123人、北小路20戸・116人であった。五カ村のなかでも飛び抜けて大きな村となっていたのである。1590年 (天正18) に前田玄以よって安堵された村の広さは二町とさきにのべたが、このうち半分は天部村の畑地 (皮張場として用いた) であり、六条村の実質の広さは一町歩ほどであった。つまりこの当時、六条村の一戸当りの平均敷地は16坪弱となっており、かなりの過密状態となっていた。これを解消するために土地の拡大を望んだわけだが、警刑吏役を勤めるためにはどうしても京都の近くに土地を求めざるをえなく、結局もととほぼ同じ規模の広さのところに移転せざるをえなかったのである。
 六条村は年寄が心配したとおり年々人口が増えつづけ、その住環境は日々悪化していった。そのため、1726年 (享保11) には大西屋庄左衛門・大和屋喜三郎・住吉屋安兵衛の3人が、六条村の南で同じ柳原庄内の畑地を開発して村をひらきたいと奉行所にねがいでた。この計画は自分の支配権が弱まることを心配した六条村年寄の反対で許可されなかったが、1731年 (享保16) になると今度は天部村の住人で六条村年寄も勤めていた与三兵衛と天部村年寄の源左衛門が共同して、同じ畑地の開発を願いでて許可された。この場所は江戸時代のはじめに貨幣をつくる銭座が一時置かれていた場所で、金気がおおいため作物の生育もかんばしくなく、領主の妙法院も宅地にすれば年貢が増えるためにこれを許可し、村の名前も「銭座跡村」と名づけられた。移転した六条村の場所は現在の地名では郷之町にあたっているが、銭座跡村はそれより250米ほど南の現在のJR東海道線の線路をまたぐ位置にあった。開発は天部村の主導でおこなわれたが、実質的には六条村の枝郷であった。開発の翌年の六条村の人口は636人と奉行所に報告されており、銭座跡村に200人ちかい人が移住したのである。
 銭座跡村の開発により一時的に六条村の人口はへったが、結果としては六条・銭座跡村への人口の集中を促してしまったようで、その後はさらに両村の人口増加の速度がはやまった。1744年 (延享元) には六条村の人口は959人となり、一時減少した人口がもと以上にふくれあがり、銭座跡村も417人の人口を数えるまでになった。そのため、1843年 (天保14) に六条村の東にあった天部村の畑地をさらに宅地として開発して、大西組と称される村がひらかれた。これは、現在の小稲荷町にあたるが、天部村にたいし25石の年貢と、警刑吏役の人足150人分の代金として18貫文の銭をおさめ、支配人5名、組頭六名をおいて村の運営にあたった。

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8、雪踏業と人口の増加


 百年の間にあたらしく村がふたつも作られるという、人口増加をもたらしたものは何であったのだろうか。六条村がおこなっていた警刑吏役と皮革業という二つの仕事のうち、警刑吏役の方は時代が下るにしたがって処刑の件数がまし、また町中見回りや犯罪人の捜索なども担当するようになるなど、次第に仕事の量が増えていっているものの、これほどに人口を増加させる要因とはなりがたかった。大きく変化したのは皮革業であった。六条村の皮革業は初期には斃牛馬処理と、比較的粗悪な革なめし、そして太鼓などの革細工であった。革細工は太鼓や沓などの一部をのぞいて、京都においては基本的に町人身分の仕事であり、穢多身分のものがそれに従事することは出来なかった。
 戦国時代に軍需産業として活況をていした皮革業は、戦乱がおさまり太平の世に人々がなずむにしたがって、必然的に衰退していった。それをふたたび活気づけたのは、財布や煙草入れ、革羽織や革はっぴなどの日常の小物や衣類を革製品としての開発したことによるが、それらの製品には上質のなめし革が必要とされ、その技術をもつ大阪の渡辺村や播磨の高木村などに生皮が集中する体制できて、各地の穢多村の皮なめし業はむしろ衰退していく結果となった。それを打ちやぶり再度皮革業の好況をもたらしたのは、履物業とりわけ雪踏づくりへの進出であった。
 雪踏は藁や竹皮であんだ草履表のうらに厚い革底をぬいつけたもので、戦国時代にすでにその名の見えるものであった。江戸時代の初期は茶などをたしなむ通人や僧侶、武士などが履くものでそうおおきな需要はなかったが、元禄頃よりしだいに町人層にひろまっていった。盆の入りと暮れに人々が争ってそれをもとめるため、一晩のうちに値が2倍から3倍にはね上がるほどであった。そしてさらに百年後の文化・文政期になると、下女や丁稚までもがそれを履いて盆・正月をむかえるようになるというように、その需要が急激にのびた履物が雪踏であった。京都では西洞院二条やもと雪踏屋通といった揚梅通などに雪踏屋が軒をならべていたが、その生産の大部分をになったのは穢多村であった。
 しかし、穢多村は雪踏をつくっても日常的に店をはってそれを売ることはできず、盆の入りと暮れの2回、鴨川の橋のたもとや京中の町屋の軒先などに店をはることが許された。六条村の場合は五条橋の東橋詰に町内と相対いのうえ毎年店をはっており、1723年 (享保8) の暮れの場合は12人の人間がそれを請け負っている。またこれとは別に、行商の雪踏売りが町内をまわって売りあるいた。雪踏は高価な履物であったためにこれを修理して履きつづけたため雪踏直しという商売があったが、この雪踏直しをするものが同時に雪踏をかついで売り歩いたのである。雪踏直しは京都ではすべて穢多身分にかぎられ、紙屋川端の非人でこれを営んでいたものも、六条村の年寄の配下となることによってその営業がようやく許された。
 このように雪踏の裏革づくり、雪踏細工そして雪踏売りに雪踏直しと、雪踏に関連した仕事のすべての領域に穢多村は進出し、それが最も売れた江戸時代後期には部落の中核的な産業に成長し、これを基礎にして六条村のさきにみた人口増加がもたらされたのであった。

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