柳原町と部落改善運動

白石正明


はじめに

 日露戦後の部落改善政策の蹉跌を経て、 明治末から大正初期にかけて大和同志会を代表とする部落民による改善運動が再興されようとした。 中心となったのは、 「大和同志会」 の機関誌 『明治之光』 であった。
 水平社創立者の一人・阪本清一郎は 『明治之光』 とその運動について、 次のように述べている。

差別の現実を把握せず名士の同情を仰ぐ体の部落改善であって、 その努力は真剣であっても本質を見極め得ぬものであった。 それは反って、 部落民の人間としての自覚を忘れさせる結果を招いたものであった。
我等がかかる部落改善運動について、 それが部落民を卑下と堕落に陥れるものとし、 一切の同情と恩恵的改善を拒否して自らを解放せんとして立上ったのが全国水平社の創立に他ならない。 我々にとって 『明治之光』 の説く改善の主張との闘いは欠くべからざるものであり、 この内面的な格闘こそが水平運動の精神を鍛えたものと云い得るであろう ( 「推薦の辞」 『復刻版・明治之光』 上巻) 。

 このように阪本によって否定的対象として捉えられた 『明治之光』 ではあったが、 その内容を丁寧に読んでいくとき、 われわれはそのなかに、 水平社を準備する思想を垣間見るのである。 「水平社」 が一握りの青年たちによって突然に生まれたのではなく、 この 『明治之光』 に代表される部落改善運動からの流れもまた、 水平社という泉をつくりあげていったといえよう。
 そこで本稿では、 明治二十年代からの部落民による改善・解放への闘いの軌跡をたどることによって、 水平社創立への長く、 深い歴史を考えてみたい。 私はさきに、 「京都柳原と部落改善運動」 ( 『京都部落史研究所報』 第一八〜二〇号、 一九七九年所収) と題して、 明治十年代から三十年代半ばまでの柳原町の改善への歩みを記した。 以下本稿は、 柳原町のその後の動きを前述のテーマにそってみてゆくものである。 検討の対象は、 一九〇三年 (明治三六) の 「大日本同胞融和会」 の設立から一九一六年 (大正五) の 「関西同志懇談会」 の開催までの時期とする。 この間、 日露戦争とその後の部落改善政策の展開と頓座、 そして 「自主的」 改善運動の再興があった。 柳原はこれらの動きのなかで、 どのような役割を果たしていったのか、 それが当時の部落改善の状況のなかにあって、どのような意味をもったのかを合わせて明らかにしていきたい。
 以上を検討することによって、 さきにのべた 『明治之光』 を、 柳原町の有力者たちが財政的に支えた理由もまた明らかにできると考える。


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一、 明治三〇年代の柳原町



    1  「大日本同胞融和会」 と柳原町



 一八九一年 (明治二四) の森秀次大阪府会議員選挙にからむ差別糾弾闘争が、 大阪西浜町を中心とした政治的駆引きのなかで尻すぼみに終わり、 柳原町は他の各地の改善運動と同様に、 部落内改善へとすすんでいった。 そのことは 「柳原町家持同盟規約」 (一八九四年)、 「改良同盟期成会」 (一八九八年) の諸規約にあらわれていることは、 前述の 「京都柳原と部落改善運動」 にみられるとおりであった。
 改善の力点が、 弊風の除去・風儀の矯正に置かれていた柳原町民の経済状態は、 表1に示した町税督促命令のおびただしい数にみられるように不振をきわめていた。
 納税対象にならない戸数・人数を入れると窮乏世帯の数はもっと多くなるであろう。 また表2の柳原町学童就学状況 ( 『京都市編入町村引継書類』 ) にもみられるとおり、 就学率も五〇%前後に過ぎず、 一九〇二年 (明治三五) には 「群内最低」 と記されている。
 不就学児童対象に夜学校が設けられたのは一九〇〇 (明治三三) 年四月であったが、 翌年には、 不就学児童対策に逆行するかのように、 学費の町費負担に耐えられず、 子どもからの授業料 (月一〇銭) 徴収を計画していた。 一九〇二年 (明治三五) に京都府は 「貧民部落調査」 を行なったがその報告によれば、 柳原町の貧民戸数は三五二戸 (人口は一、五八五人) にのぼっており、 『明治十九年臨時旧穢多非人調書』 の極貧者 ( 「所有モナク、 啻ただニ近隣ノ救助ヲ受ケ、 或ハ荘内、 且ツ他ノ慈善者ノ助力ヲ受ケ糊口スルモノニシテ、 動ややモスレハ饑餓ニ陥ラントスル等ノ状態ナリ」 ) 数三四九戸と、 同じような数を示していた。
 このような窮乏状態が続く柳原町であったが、 明石民蔵らによる柳原銀行設立 (一八九九年六月) 、 皮革の取引き年商六五万といわれるように、 一部有力者は、 富を蓄積していた。 彼らは柳原尋常小学校の新設用地買収のための起債に (一九〇一年二月)、 派出所の増築に、 私立柳原町国民夜学校の新設申請になど、 町内改善に努めていった。 前述の柳原町の 「家持同盟」 「改良同盟期成会」 などの改善運動は、 唐瀧庄三郎町長、 明石民蔵らを中心とする有力者たちの現実の改良努力のあらわれであった。
 だが彼らは柳原町の改善だけにとどまらず、 一八九一年 (明治二四) の 「部落民大懇親会」 の結成を引き継ぐものとして、 他の部落との結合の方向をさぐっていた。 一九〇一年 (明治三四) に 「互助協会」 が唐瀧庄三郎町長によって結成されているのは、 そのあらわれであった。 同協会は 「近畿地方新平民の一般弊風を矯正せんとの目的」 とし、 改善運動の拡大をねらったものである。 改善運動の拡大による部落民の力の結束によってのみ、 部落の社会的経済的低位性を打破できるとの考えは、 柳原町の指導者の共通の考えであった。 部落内改善に奔走する彼らの頭には、 結束した力をもって外へ抗議という図式がつねに描かれていた。 彼らの計画は、 一九〇三年 (明治三六) 七月の 「大日本同胞融和会」 の設立によって実現する。
  「大日本同胞融和会」 は、 一九〇二年 (明治三五) 九月五日の西本願寺布教師龍華智秀の差別発言糾弾闘争の成功によってもたらされたものである。 和歌山県有田郡石垣村教念寺でおきたこの差別発言事件に対し、 同県の辻岡三郎 (伊都郡端場) 、 岡本弥 (同) 、 永阪陸之助 (紀伊郡岸上) 、 清浦清三 (那智郡王子) らは、 大阪西浜町の岩田庄一郎、 沼田嘉一郎、 岩田庄二郎らをはじめ、 四国、 山陽へと檄をとばし、 五ヵ月にわたる闘いを組織した。
 岡本弥らは、 『大阪毎日』 『大阪朝日』 ら各新聞社を訪れ、 声援を依頼した。 このうち 『大阪毎日』 は前後二七回にわたり、 冷々生の署名入りで部落の歴史と現状を述べた 「一種の社会」 ( 『大阪毎日新聞』 明治三五・一〇・一六〜一一・一九) 「屠畜場の観察」 (同上、 明治三五・一一・二一、 二二) などを連載し、 差別の非理非道なることを叙述した。 「一種の社会」 の連載のなかで、 冷々生はこの差別事件を詳細に報じ、 「 (龍華智秀に対する) 彼等の激昂は如何にも尤もな次第で男らしく飽迄主張を貫くがよい」 と述べると共に、 「彼等はこの動機を幸ひに、 各部落の大聯合を造って、 宗教以外即ち普通社会の事柄にも、 帝国臣民が持つべき当然の権能を振はうという規約をなしつつある」 ことを歓迎し、 「社会的団結を造って彼等が天与の権限を主張するといふことも自分は大賛成である。 大に遣るべしと勧告するのである。 若しこれが成立つとすればそれは彼等の一進歩だ。 そしてまた日本の一進歩だ。 普通民が彼等に対する誤解の夢も漸く覚めるのだ」 と、 その動きを支援した。
 各地の部落民の立ちあがりと、 このような新聞の声援に運動は展開し、 和歌山県伊都郡端場村に 「陋習ろうしゆう矯正期成同盟会」 がつくられ、 ひとつのセンターとなった。
 龍華智秀差別発言糾弾事件に対して、 柳原町も部外者でなかったであろう。 それは、 同事件の中心人物である岡本弥と柳原町との浅からぬ関係から考えられる。
 岡本弥は一八九七年 (明治三〇) 当時、 小法師こぼしの歴史調査の目的で愛宕おたぎ郡野口村の益井信宅に滞在中であったが、そのとき起こった「京わらべ童子社」差別記事糾弾にかかわっている。岡本は益井の紹介で、三条の竹中庄右衛門、若林弥平次、柳原町の明石民蔵を知り、彼らと共に京わらべ童子社に談判に行っている。
 また一九〇一年 (明治三四) 四月六日、 岡本は益井信の発案で、 柳原尋常小学校で 「部落の起源」 について講演、 これには町民一千名が集まっていた。 そのとき岡本は 「和歌山県の志士」 として紹介されている。 前述の 「互助会」 組織は、 同年四月ごろであったが、 同組織は岡本の演説に触発されたのか、 それとも同協会組織の喧伝のひとつとして岡本の講演が企画されたのか、 いずれにしても、 柳原町にとって、 岡本は周知の人物であった。
 その岡本が、 龍華智秀の事件で柳原町を運動に参加させないことは考えられない。 柳原町は、 各地の部落と同様に龍華智秀の闘争を経て、 「大日本同胞融和会」 結成へと向かったといえる。
 大日本同胞融和会の発起人会は、 一九〇三年 (明治三六) 六月二五日、 大阪府下堺浜寺の川芳樓で開かれた。 ちょうど同じころ第四回内国博覧会が大阪で開催され、 多くの見物人があることが予想された。 その人びとの注目も引くように、 岡本弥や大阪府下泉北郡南王子村の中野三憲は、 その機会に全国組織の結成創立大会を大阪・土佐堀青年会館で開くことに決定した。 発起人会には、 三好伊平次 (岡山) 、 永阪陸之助 (和歌山) 、 岡本弥 (同) 、 巽英賢 (同) 、 中川左武郎 (同) 、 中野三憲 (大阪) 、 柴田利雄 (同) 、 岩田庄一郎 (同) 、 中村諦信 (同) 、 岩渕輝照 (奈良) 、 岡部真徹 (同) など一七、 八名とあり、 京都人の名前は挙げられていない。 だがこの発起人会が、 全国に放った趣旨書には、 京都から柳原町の明石民蔵の名が記されていた。
 発起人の名前は次のとおり。

東京 弾   直 樹 (浅草区亀岡町)
京都 明 石 民 蔵 (柳原町)
神戸 中川辰次郎 (宇治野)
   藤 本 英 哲 (須磨村)
大和 中 村 諦 信 (磯部郡)
   岩 渕 輝 昭 (磯部郡川東村)
   坂 本 清 俊 (南葛城掖上村)
   岡 部 真 徴 (山辺郡二階堂)
   樫木言一郎 (生駒郡南生駒)
   小川幸十郎 (磯辺郡三宅村)
紀州 永阪陸之助 (伊都郡岸上)
   笹 (ママ) 永 賢 (同上)
   浦 岡 清 蔵 (那賀郡王子村)
   岡 本   繁 (有田郡御霊村)
   川北賢之助 (海草郡本渡)
   辻 岡 三 郎 (同端場)
   岡 本   弥 (同上)
備前 三好伊平次 (和気郡藤野)
   岡 崎 熊 吉 (上道郡岡井)
作州 宰 野 正 視 (勝田郡瀧尾)
   友 森 兼 平 (同上)
   三 浦 哲 夫 (同上)
其他大阪の柴田利雄、 浅井晃了、 大和の西笹数馬、 木村吉輔

たちである。 龍華智秀差別発言糾弾闘争の中心人物の一人である大阪西浜町の岩田庄一郎は名は挙げられていない。 その他発起人の名前に森秀次、 益井信の名前が連なっていないが、 七月二六日の創立大会には、 上記の両名とも出席していた。
 この大会に、 柳原町から数十人が参加することが伝えられた。 柳原町にとっては、 さきの 「互助協会」 づくりにみられるように十余年来の計画であった全国組織の実現であった。
 岡本弥の記す大日本同胞融和会の大要は、 第一段で人種・宗教・風俗の異なる外国と交流している現在、 一部同胞に対する弊風陋俗を解除しないのは遺憾であり、 しかもその外国と対峙してゆくときに 「先づ同胞の融和を確得」 するのは不可欠だと、 国家的見地からの差別の非理を、 第二段で現今の因襲がどんな結果をもたらしているかを、 第三段で部落民・非部落民共々五ヵ条の誓文、 教育勅語に書かれた 「天地の公道」 を実現することを求め、 教育の奨励・風俗の矯正・殖産興業・言論集会の実行などの必要を記している。
 この趣意書は、 一九四一年 (昭和一六) に岡本が原文を 『融和運動の回顧』 に要約したものである。 原文はその一部しかわからないが、 岡本の要約 (A) と原文の一部 (B) を並べてみよう。

(A)(B)
 若しそれ乙族の甲族に接する思想態度に至ては、専ら遜譲卑屈を分とするが如き因襲風を為し、俗を致し同一天禀の良治良能は変じて堕落退下す。是皆階級制度の弊之を然らしむるにあらざるはなし、天賦平等の権利は拘束せられ、天⊥票至当の幸福は堕塞せられ、不平は絶望となり、無智無学自暴自棄酔生夢死して覚醒するなし、積弊累随今に存す、焉ぞ速に矯正せざらん  若し夫れ乙族の甲種に接するの思想、態度に至りては専ばら遜譲、卑屈を分とするが如き、是れ因襲の風を為し俗を致したるもの、同一天禀の良知良能、変じて堕落流下に帰し、頑随邸劣に維れ甘んず、蓋し階級制度の弊之をして然Iらしむるものと云べし、是に於てか天賦平等の権利は拘束せられ、天禀至当の幸福は嚢塞せられ、抑山鬱顛柳、不平は絶望となり、無智無学、自暴自棄、酔生夢死して、更に覚悟する処ろなし、積弊累随の惰力、今日に存するもの焉ぞ速やかに矯制せざるを得んや

  (B) は、 差別を現今の階級制度の弊であることを断言してはばからぬ激しい口調で差別を弾劾していた。 その激しさが 「三百の同志、 東は東京・愛知・三重から近畿の各府県、 西は九州・中国・四国に亘り何れも現代にあるまじき不合理な差別に対し悲憤の血を漲らしている生気横溢の青壮年」 の来会をもたらしたといえた。 そして同時にも、 口調は異なったかもしれないが、 原文には聖旨の実現と天地の公道を結びつける考えも記されていたのであり、 それも大日本同胞融和会を組織した人びとの思想でもあった。 現体制への指弾と現体制の完成への努力要請が混在していた。 この混在が運動方針をめぐっての論争となり、 結局は外への、 つまり社会体制そのものへの抗議運動ではなく、 内部の自覚運動、 部落改善の方針が採られるようになったといえる。
 だが 「兆民逝てより、 彼等の声を聞かざるもの久し、 今や再び中野氏等に依て此盛挙あるを見る、 希ねがはくば自から屈するなく、 自から侮どるなく、 更に胸襟を大にし、 進んで自個の権利を主張することを努めよ、 退守する勿れ、 猜忌する勿れ、 又徒いたづらに彼の無責任なる政治屋の喰物となる勿れ」 と 『大阪毎週新聞』 の記者をして書かせた部落民の全国組織としての 「大日本同胞融和会」 が発足したのであった。
 同会の目的は、 各地ですでに行なわれていた部落改善運動であったが、 全国の部落民を糾合して一大勢力となる可能性をはらんでいた。 だがその可能性も、 半年後に勃発する日露戦争によって立ち消えとなってしまった。

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    2 柳原町と日露戦争



  「大日本同胞融和会」 の約半年後の一九〇四年 (明治三七) 二月一〇日に始まった日露戦争に、 柳原町は積極的に協力していった。 開戦直後の三月一〇日、 西光寺で柳原町奉公義会が開かれ、 高木文平、 奥野市次郎らの軍事奉公演会が行なわれた。 同会には二千人余の町民が集まり、 演説に応えて軍資金献金、 出征兵士の留守家庭への義捐の申し出が相次いだ。 軍需公債への応募は一七万円を超え、 別に恤兵部の献金は六千円に達したという。
 同月一二日には東本願寺の僧侶を招き、 留守家族への救護を町民に呼びかけ、 これも好成績を収め、 「即座成績の美挙なること、 各地応援中、 稀に見る処なりしといふ」 といわれた。
 学校では、 日露時局幻燈会を開催し、 小学生も教員に引率され、 出征軍人を見送り、 あるいは留守家族の慰問をしていた。
 柳原の戦争協力は、 多額の軍事公債という特徴はあるものの、 当時にあっては特異なものではなく、 基本的にはどこの町にもみられたところであった。
 日清戦争と異なり、 巨大なロシアを相手に日本軍は苦戦をつづけ、 それが国民の戦争協力を一段とあおっていた。 旅順の陥落は、 一九〇四年二月二四日の攻撃開始から翌一九〇五年一月一日までに一〇か月余かかっていた。 その間何度も“陥落”とのデマが飛び、 無駄な旗行列が各地で行なわれた。
 柳原町もデマに踊らされたことでは例外ではなく、 『柳原町尋常高等小学校沿革誌』 の一九〇四年九月一三日の項には 「旅順陥落祝賀会ヲ開ク (生徒全体出席城南高等小学校庭ニテ) 」 と記されてある。 したがって 「旅順陥落」 が事実となったとき、 提灯行列、 旗行列は国中にあふれ、 柳原町も町を挙げての祝賀となった。 一九〇五年一月三日、 柳原尋常小学校に一千人がくりだし、 祝砲代わりに一〇一発の花火が打ち上げられ、 軍楽隊つきの軍艦神輿が町中をねり歩き、 伏見の歩兵第三八連隊に到ったという。
 戦争に全面協力の柳原町であったが、 その足もとは戦争経済によって浸触されていった。 柳原町民の仕事である皮革関連の仕事、 それに京都駅に近いという地理的な関係での鉄道・貨物・乗客相手の労役・車夫などが、 戦争の影響をまともに受けてしまった。 軍需のために皮革の需要が増加し、 皮革が高騰し、 材料不足をもたらした。 履物・靴商が不振となった。 また鉄道は、 乗客や貨物輸送から軍隊の需要輸送に振り替えられ、 輸送途中駅にすぎぬ京都駅での仕事は少なくなっていった。 そのため出稼者も多くなり、 それでなくても低い就学児童のその出席率が六〇%を割ってしまう有り様であった。 戦争が町に及ぼす影響を、 町の有力者たちは看過していたわけではない。
 柳原町からの出征軍人は六〇人を数えたが、 それら出征軍人の留守家族への義捐ぎえん金募集は、 戦争協力の意味があっただけでなく、 「唯さへ貧困者多き町内の事とて、 今後出征軍人の家族は忽たちまち路頭に迷ふ可き有様なるよし」 ( 『中外日報』 明治三七・三・一二) との現状認識から生まれた企画であった。 ちなみに柳原町から二名の戦死者が出たが、 その留守家族の生活は、 一人は雪駄職人である本人が応召されたあと、 父や弟が 「家禽売買業ニシテ、 赤貧僅ニ生計ヲ立ルノミ」 であり、 も一人は 「遺族幼年ニシテ無職業」 という悲惨なものであった。
 また町長の唐瀧庄三郎は、 町の失業対策として軍靴製造を計画した。 軍靴製造は、 大倉組の分工場を町に誘地する形態をとり、 町内に三か所の製造所がつくられ、 五〇〇人の職人を吸収し、 一日製造高平均七〇〇足以上を生産したと、 その順調ぶりが伝えられた。
 だがそのいっぽうで、 従来からの町の小製靴業者は、 原材料・職工とも入手難となる状況がつくり出され、 前年よりも状況は厳しくなっていった。
 履物商の原料入手困難も同様であったろう。 町による大手下請け斡旋は、 柳原町民を生活の破綻から守ったと考えられるが、 前述の 『町村引継書類』 にみられるように、 町民が基本的な窮乏状態から脱することはできてはいなかった。 そのうえ、 皮革だけでなく、 製靴業への大手の進出により、 地元業者の地盤が低下していった。 一九〇七年 (明治四〇) に、 桜田儀兵衛、 明石民蔵ら町の製靴業者が相謀り、 資本金五〇万円で製靴・帯業の製造販売を目的とした 「京都製靴株式会社」 を設立しようとしたのは、 失地挽回のねらいがあったといえる。 桜田らは第三八師団の増設による需要の拡大を見込んで、 資本金を二〇万円から五〇万円にしようと計画していた。
 桜田らは、 柳原町の労働力の豊富さと廉価から採算がとれると見通したが、 その直前の四月に東京では、 大倉組・桜組などの合同による資本金五〇〇万円もの 「日本皮革株式会社」 が設立されている。 原料の確保・販売ルート等々、 これら大手業者との競合が彼らを待ち構えていたのだった。

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    3 柳原町と日露戦後の教育



 一九〇三年 (明治三六) 五月、 京都府教育会主催の教育博覧会に、 柳原尋常小学校は、 鼻緒・向懸・雪駄・下駄の表・沓・鹿革・洋靴等の製品を出品した。 『大阪朝日新聞』 京都版 (明治三六・五・一二) はこの出品を、 当時のこれらの仕事に対する偏見から考えると、 勇気ある出展として柳原小学校を賞めそやした。
 当時の柳原小学校長は、 同町出身の玉置嘉之助である。 一八七七年 (明治一〇) に同小学校教員となり、 一八八九年 (明治二二) に校長となった玉置は、 一〇年代からの町の衰退とそれに抗した人びとと共に運動を担っていた人物である。 柳原小学校の自分たちの町の職業を誇りとするこの出品は、 柳原の教育が、 町の人びとによって成り立っていたことの反映でもあった。
 前述のように柳原小学校の就学率は低迷していた。 低い就学率を補うものとして、 町費で夜学校と子守学校が運営され、 子どもたちの教育の機会がどうにか確保されていた。
 日露戦争終結直後の一九〇五年 (明治三八) 一〇月 (京都府令第三八号) と翌一九〇六年の一月 (京都府訓令第二号) に京都府は貧困者児童の就学を奨励しはじめるが、 柳原尋常小学校ではそれ以前から町内の有力者たちの協力で学用品の給与・貸与を行ない、 また前記のように夜学校・子守学校を町費でまかなっていた。 だがその資金にも限界があるため、 玉置嘉之助校長は、 唐瀧町長らと協議の末、 戦勝記念として 「柳原尋常小学校積立講」 をはじめることとなった。
 同講はその名のとおり、 柳原尋常小学校の貧しい就学児童に学用品を給与・貸与する資金の基金をつくりだす目的をもっていたが、 一九〇五年 (明治三八) 一〇月二一日の発会式の第一回募集で、 たちまち五〇〇口の加入があり、 翌年三月の第二回募集にも五〇〇口の加入があった。 予想をはるかに超えた応募のために、 当初の目的を拡大して柳原尋常小在学児童の学用品給与・貸与だけでなく、 半分を夜学校や子守学校の資金にまわすこととなった。
 柳原町の教育講は取退き頼母子講である。 つまり講員は月一回の講会に当籤すれば、 掛金の数倍の金を一時に入手することができる宝くじ的要素を持っていた。 柳原町の積立講では、 当籤した講員はそれまでの掛金を講に寄付、 あるいは当籤時の割増金から特別有志金を寄付することもあった。 講元や講員の双方にとって利の大きい組織であるこの取退き頼母子講は、 庶民の一般的な金融機関であり、 講元への信頼と趣旨に賛同する多数の講員がいて初めて成立するわけで、 積立講の成功は、 柳原町の町としてのまとまりをあらわしていると同時に、 教育費を講組織に頼らざるを得ないという町の財政の乏しさを示すものであった。
 柳原町の学校経営が困難となっていたのは前述のように授業料徴収を府に出願していたことにもみられるが、 その他小学校校舎の移転改築も遅々としてすすんでいなかった。
 柳原尋常小学校 (八条坊門に九〇〇坪) の移転改築計画が、 場所をめぐっての町論分裂の事態を乗り超えて決定されたのが、 一八九九年 (明治三二) 三月である。 その年に積立講が組織され、 一九〇一年には、 町債四千円が発行されている。 その少し前の一九〇〇年一二月には、 一八〇〇坪の土地が購入された。 しかし移転先をめぐっての論争が再燃し、 町長の辞任問題にまで発展したが、 結局は予定通り移築となった。
 一九〇三年 (明治三六) 九月一六日、 柳原尋常小学校創立三〇周年が挙行された。 式には、 府知事の祝文も寄せられ盛大に行なわれたが、 その当時の校舎の写真が 『崇仁校百年の歩み』 (一九七三年刊) に載っている。 門柱に 「旧校舎」 とことさらに張り紙がしてあるのは、 まだ新校舎のかたちも生まれていなかったが、 新校舎建築開始・完成が予定に入っていることを示していた。 門の前や校庭に、 玉置校長らの並んでいる写真の左上部には、 校舎の窓をあけて、 児童たちがその様子を見ているのが映っている。 その校舎は、 相当に破損している。 新校舎の建築が急がれていただろう。
 だが計画のまま、 また数年が過ぎ、 一九〇五年 (明治三八) 一一月には、 一八九九年段階で決定した予定地は学校敷地としては人馬の往来で喧噪すぎるとして、 その土地は役場敷地に変更され、 小学校は従来の土地に拡充改築することになる。 同年一二月に小学校の改築が、 戦勝記念として実施されることが議会で決まるが、 具体的に資金調達が始まるのは (町債一万円発行) 、 翌一九〇六年となる。 そうこうするうちに、 一九〇六年三月に小学校令が改正され、 義務教育が四年から六年に延長されることとなった。
 一九〇六年 (明治三九) に学校改築が開始され、 同年四月から在校児童は、 仮校舎への移転を始めていたが、 義務教育延長となれば、 児童数も増加するわけで、 従来の計画の見直しに迫られ、 一九〇八年一〇月二〇日、 柳原町字七条裏の崇仁小学校の現在地へと敷地を移転し、 新築することに変更した。
 義務教育の延長は、 校舎の問題だけでなく、 町の負担増となったが、 柳原尋常小学校で教育年限の延長が実施されたのは一九〇八年四月で、 これは小学校令実施に間に合わせたものであった。 このとき当然校舎はなく、 民家を借りて実施された。
 二転三転した学校移転・改築問題が最終的にまとまり、 整理の段階までこぎつけたときの町民の喜びは大きかった。 一九〇九年 (明治四二) 二月一五日敷地地盛りのための砂運びは、 一戸一人の義務出役であったが、 それはまるでお祭り騒ぎであった。
「午前八時を期して轟然たる爆発一聲と共に同町の男女は老ひも若きも仮装の道化可笑しく数條の飾国旗をかざし敷地に集合し打揃いヨイショツヨイショツの掛聲して加茂川原より砂を運び始めたるが」 ( 『日出新聞』 明治四二・二・一七) その賑やかさに三千余人の見物人が集まり、 露店も張られ、 警察官が整理にあらわれるほどであった。 町民の砂運びは日没まで続いた。
 新校舎の竣工は、 『崇仁校百年の歩み』 では一九一〇年 (明治四三) 六月となっているが、 柳原尋常高等小学校の一九〇三年 (明治三六) 七月以降を記した 『沿革誌』 では、 職員室・全児童の新校舎移転が完了するのは一九一一年 (明治四四) 九月になってからである。 一八九九年 (明治三二) の改築決定以来一二年かかっている。
 この間、 柳原尋常小学校は一九一〇年 (明治四三) 四月に高等科併設を府に出願したが、 同年一二年には併置延期願いを提出している。 半年で予定を変更したのは校舎の竣工の遅れが理由だと思われるが、 府は延期願いを却下、 予定どおり一九一一年 (明治四四) 四月からの実施を通達し、 柳原尋常小学校はこれを受け入れ、 同年四月から柳原尋常高等小学校と改称された。
 柳原小学校の整備の歩みをみるとき、 部落にとって、 子どもたちの教育条件を整えることがいかに至難なことであったことがわかる。 義務教育延長実施に際して、 『大阪朝日新聞』 京都版 (明治三九・九・二七) は、 京都府下四二九小学校のうち七〇校が実施困難とみられ、 そのなかに部落民の多い町村が含まれていると記しているが、 柳原もそのひとつであった。 文部省の意を受けた京都府の就学督励に関する諸方策 (学資給貸与など) が提示されてはいたが、 基本的な教育実施は町民の協力なしでは、 少しもすすむことはなかったのである。


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二、 柳原町における部落改善政策



    1 矯風会の結成



 柳原尋常小学校移転先の変更が検討されていたころの一九〇八年 (明治四一) 七月一五日、 柳原町矯風会が発足した。 同会は、 七条警察署塩小路分署々長の吉村盈の発案でつくられたものである。
 吉村の矯風会結成の動機は、 一九〇五年 (明治三八) の日露戦中に有松英義三重県知事によって治められ、 一九〇七年三月に 『特種部落改善の梗概』 にまとめられた三重県の部落改善事業の 「成功」 であった。 同県の調査・改善事業は、 留岡幸助の 「新平民の改善」 ( 『警察協会雑誌』 第八〇〜八六号、 明治四〇年一〜七月、 四回) で詳しく紹介され、 同年八月には 『日出新聞』 (明治四〇・八・二三) に同事業の中心人物・竹葉寅一郎の業績が報道された。 吉村は後述のように 『警察協会雑誌』 に寄稿していることからもわかるように、 同雑誌も 『日出新聞』 も購読していたと考えられる。 一九〇八年一月の留岡の柳原町での講演で、 大いに刺激を受けたのであろう吉村は、 同年六月ごろから具体的に矯風会結成にのりだす。
 柳原町矯風会の成立について、 吉村盈は 「吾人の見たる特種部落」 と題して 『警察協会雑誌』 (第一〇〇〜一〇二号、 明治四一年九月〜一一月、 三回) に連載したが、 以上それにしたがって柳原町矯風会の成立について記してみたい。
 柳原町矯風会は一九〇八年 (明治四一) 六月二日、 柳原町議会終了後、 吉村が柳原町民と称して、 細民の窮状と町民の改善への意欲を議員たちに訴えたことからスタートした。 一九〇七年六月に赴任した吉村は、 一年間かかって柳原町民の現状を観察し、 次のような結論に達していたという。
 種々の事件処理の経験から、 次の事実を知った。 町民改善は何よりも仕事の確保であること。 戦争協力や祭りの自主規制にみられた町民の活躍から、 町民には名誉心も向上心もあること。 進取会・改良期成同盟会・家持同盟会・樹徳会・進歩会・誠心会・一心会・在郷軍人会・丁未矯風会の諸団体結成にみられるように、 町民は改善を望んでいてしかも救済されずに放置されていること等々。
 そこで吉村は 「一年間数多の試験成績に徴して考える時は、 決して彼等は救済し得さる民にあらすとの断案確信を強」 くし、 「今日迄……社会に害毒を流布し居たのは、 是れ多年の慣習上彼等を見ることの余りに冷酷に失せるの結果にして、 其罪彼にあらすして社会にあり、 指導扶掖すへきは当局者にありと云はさるを得ない、 既に社会誤れり、 当局者また誤れり、 如何いかて警察行政をのみ完全に施行し得んやてある。 彼等は救済を待ちつつある、 進歩せんと勗めつゝある、 而かも救済されす発展し得す、 怏々として為すなく徒らに悶々せるの輩てある」 と考えたという。
 ここに書かれてあるのは、 明治三〇年代にみられた被差別民の名誉のための組織がもっていた思想と同質のものであった。 しかしながら吉村は 「指導扶掖すへきは当局者にあり」 と述べながら、 そこから一歩踏みだして、 差別を放置している当局者の批判へと向かうことはなく、 部落内改善を目的とする矯風会成立へ向かうのである。
 吉村は、 従来からの改善運動はすでに有名無実であり、 町の有力者たちは口先ばかりで何もしないと考え、 みずから会則・規約文を作り、 唐瀧町長、 玉置校長に改善計画の相談を持ちかける。
 吉村の計画は、 有志者から四〇〇円を基本金として集め、 会員からは毎月一〇銭の会費を集め、 一〇か年間これを貯金させるというものであった。 基本金の一部で人力車およびミシンを購入し、 仕事を確保し、 貯金された会費によって婦女部、 小児部、 実習部、 体育部、 夜学部、 救助部、 衛生部、 禁酒部などをつくって事業を行なう。 会規約を守る優秀な会員には基本金から貯金の利子を与え、 逆に成績不良の会員は貯金を没収するというものであった。
 吉村の提案に、 唐瀧も玉置も賛成するが、 資金の点でちゅうちょした。 これは前章で述べたように、 当時小学校改築で町民の余裕はないと、 二人は判断したのであろう。 吉村はそれではと、 直接町議会に働きかけることにした。 これが一九〇八年六月二日である。 議員たちを前にして、 吉村は 「今泣き居りし細民を救助するは確かに諸君の任なりと、 是れより細民を救はされは、 日本五千万の同族を有する諸士の勢力は何れの時か発展するを得ん、 徒らに廃民となりて止まんのみ、 同族の勢力を拡張して、 多年世人の排斥熱と戦はさる可らさる所以」 を三時間にわたって述べたという。
 吉村のこの演説も、 前記の引用と同様に、 柳原町の人びとが持ちつづけていた部落改善の力をもって、 外からの排斥に抗し闘うという方向であった。 居並ぶ柳原町の有力者が心を動かされ、 矯風会計画に同意したのは当然であったといえる。 その場で議員たちは、 基本金二三六円を拠出して、 矯風会は事実上スタートした。
 翌六月三日、 柳原町役場内で発起人会が開かれ、 唐瀧、 吉村ら発起人たち二〇名が、 吉村の起草した会則・規約等を協議した。 規約・申合わせ事項が決定され、 各戸に配布された。 やや長文ではあるがその全文を引用する。

  柳原町申合規約

当町民は町の発達を謀り仮たとひ如何なる貧しき生活を為すとも、 世人の嗤を受けぬ様にとの主旨にて、 今度町内重立者は塩小路警察分署と相談して左の取極めを結ひ、 更に茲ここに本町に住む人一同と共に、 互に其実行を約束する事とせり。  

   公共的規約

一、 国の規則を破るは家の柱や壁を破るのと同しことゆゑ、 如何なる規則ても必す守つて行かねはならぬ。 若し不心得の人あれは、 町内の者互に戒め合ひ決して左様な事なき様助け合ふ事。
二、 一町村は是れ又小さき国と同し事ゆゑ、 町て定めた取極めは、 前同様堅く守るへき事。
三、 町内各家にある組長の伝へる凡ての通知は、 必す実行する事。
 組長は組内の事に付、 町長を助け凡て組内の伝達を速かに実行する事。
四、 町役場又は凡ての官署より呼出其外の命令ある時は、 止むを得さる場合の外 速かに是れに応する事。
五、 租税又は組合費用は必す期日を遅れぬ様納付する事。
六、 当町の矯風会は町の為めに設けたるものなれは、 成るへく多数加入する事に 勗むる事。
   個人的規約
一、 夜間夏期は十一時冬期は九時後用事なくして道路に俳徊せさる事。
二、 男女共に外出する時は、 成るへく見苦しからさる衣服を著用し、 平素より必 す帯をする事。
三、 家の内外を問はす裸体とならぬ事。
四、 男子は時々斬髪し女は毎朝結髪して、 成へく見苦しからさる様注意する事。
五、 他町村に出て繿ぼろ縷又は其他の物を拾ひ集めさる事。
六、 賭事は一切之れを為さゝる事。
七、 道路を歩みなから食物を喰ふ可からす。
八、 大人小児を問はす間食の買喰ひをなし又為さしめさる事。
九、 止を得さる外は、 子供に金銭を与へ物を買はしめさる事。
十、 外国人は素より入り込む人ある場合、 其周辺に付纒はさる事。
十一、 犬猫其他の家畜を殺傷し又は虐待せさる事。
十二、 節分に厄払と称して徘徊せさる事。
十三、 戸を明け放ちのまゝ、 外出せさる事。
十四、 心易くとも故なく他人の家を通り抜けさる事。
十五、 洗濯物は成るへく家の後ろに乾し、 道路を横切る如き事は断然廃する事。
十六、 家の入口に小便所を設けさる事。
十七、 家屋内は必ず畳其他の上敷を設くる事。
十八、 家屋は朝夕怠らす掃除し、 外より見苦しからさる様注意する事。
十九、 宅地内に草を生し、 又は竹木其他の物件を散乱せさる事。
二十、 人を呼には必す敬称を用ふる事。
二十一、 徒らに親属以外の者を宿泊せしめさる事。
二十二、 出産死亡結婚寄留等は速すみやかに届出つる事。
二十三、 平素成るへく飲食を減する様慎む事。
二十四、 葬式仏事等には断然酒を用ひさる事。
二十五、 年賀婚礼等の場合は、 親属以外に濫みだりに人を招かす、 質素を旨とする事。
二十七、 年賀婚礼等の場合、 物見高く其附近に集まらさる事。
二十八、 結婚するには必す昔時の風儀を廃し、 世間普通の手続を為す事。
二十九、 衣類は時々洗濯して、 垢の付かさるものを用ゆる事。
三十、 男女共に成るへく毎日入浴する事。
三十一、 跣足にて道路を歩行せさる事。
三十二、 飲食物は固より飲食器具と雖とも、 在来の溝にて洗ふ可べからす。
三十三、 共同流の設けある時は、 使用者其都度清潔に掃除する事。
三十四、 各戸の流し先は清潔に掃除し、 破損せし侭捨置かさる事。
三十五、 便所の破損せし時は、 最も速に修繕する事。
三十六、 寝具は少なくとも一箇月二度以上、 晴天に乾す事。
三十七、 日々の塵芥は一定の場所に捨つへし、 道路溝等に捨るへからす。
三十八、 流し先の汚水を道路に流し、 又は浸み込ましめさる事。
三十九、 各戸前の溝及ひ道路は、 毎日掃除を怠らさる事。
四十、 家屋を所有する者は必す屋根樋下水道を設け、 之を共通の溝に抜く様構造 する事。
四十一、 井には必す蓋を設くる事。
四十二、 妻は夫に従ひ夫は妻を愛し、 苟いやしくも口論ケ間敷言葉遣ひをなさゝる事。
四十三、 学齢の児童は必す学校に入れる事。
四十四、 十二歳以上の児童は適当なる職業に就かしめ、 空しく遊はしめさる事。
四十五、 一家協同、 家毎に日掛貯金を行ふ事。
 但日掛貯金は一日壱銭とし、 組長取纒め郵便局に預け入れ、 組内にて救ふへき ものある時は、 確かなる方法にて貸与する事。
四十六、 各自業務を励み、 毎月一日十五日の外は成るへく休業せさる事。
四十七、 昼休みと称し昼間睡眠せさる事。

  明治四十一年六月

        柳原町矯風会

 矯風会結成の気運は盛り上がり、 唐瀧が創立費として二〇円を拠金したのをはじめとして、 六月九日までには予定額四〇〇円を超える七六〇円が集まった。 二〇円以上の寄付金をした者は、 唐瀧庄三郎、 松下斉蔵、 桜田儀三郎、 家村嘉二郎、 鈴鹿甚三郎、 前田治之助、 桜田儀兵衛、 西光寺であり、 矯風会は町の有力者たちの同意を得て出発したといえた。
 二六日には規約説明会も開催され、 この場で町民の会員申し込みも相次ぎ、 翌七月二日の矯風会成立をみる。 会長に唐瀧町長、 副会長に前田治之助助役が交互に務めることが決定され、 吉村署長が 「会則」 に則り顧問に就任している。
 柳原町の有力者たちは、 矯風会会発足に力を入れ、 申合わせ規約にも 「町内重立者は塩小路警察分署と相談して左の取極めを結ひ」 云々と記されたが、 実質的には、 吉村の計画どおりに事が運ばれた。 申合わせ規約には 吉村が町議会で訴え、 同意を得た改善を通じて外からの排斥熱と闘うという視点は消え、 「当町民は町の発達を謀り仮ひ如何なる貧しき生活を為すとも、 世の人々の嗤を受けぬ様に」 と部落内改善へと目的が狭められ、 生活のすみずみに渡った生活規範の遵守が会の主要な目的となっていた。
 吉村は 「会則」 によれば、 会から嘱託された顧問であったが、 この顧問は 「重要会務ニ干与ス」 とされ、 会長より上位にランクされていた。 そのうえ吉村は、 柳原町既存の諸組織を解体して矯風会へ統合した。
 柳原町有力者の同意を取りつけた吉村の動きが、 新聞に喧伝されていくうちに発会式を迎えた。 この時点での会員は六〇〇余人、 寄付金は九一六円五〇銭に上った。
 発会式は、 七月一五日に西光寺で開かれた。 会は、 唐瀧会長の開会の辞で始まった。 来賓には大森鍾一知事を初め、 桜井丈太郎紀伊郡長、 滝川愚仏京都地方裁判所検事正第三八連隊区司令官代理、 荒木城南高等小学校長ら五〇名が招かれた。 このことは、 矯風会が柳原町の改善組織であると同時に、 京都府当局が柳原町矯風会をひとつのモデルケースとして注目していたことを示していた。 このとき吉村は、 来賓らと共に祝辞を述べ、 一応外部からの協力というポーズを示したが、 来賓の演説のなかで同矯風会の成立は、 吉村の業績であると語られ、 それが新聞に報じられ、 吉村は実質、 矯風会の中心となっていたことが内外に明らかにされた。

    2 矯風会の活動と吉村盈署長



 柳原町矯風会が発足した二日後の一九〇八年 (明治四一) 七月一七日、 第二次桂太郎内閣が成立した。 日露戦争の勝利は、 日本を強国の一つに押し上げたが、 国民は戦後もつづく戦時増税に疲弊し、 かつ講和条約の無内容に不満をかくさなかった。
 第二次桂内閣の重要課題は、 強国を支えるにふさわしい国民統合強化と戦後経済の立て直しであり、 そのためにいっぽうで社会主義者への弾圧、 いっぽうで社会政策が講じられることになった。
 内務省警保局長に三重県知事の有松英義が就任した。 部落問題に関心を持ち、 三重県において施策をすすめていた有松の就任は、 日露戦後経営のなかで部落問題が政府の政策のひとつとして取り組まれていくことを予想させた。 有松の警保局長就任は、 吉村にとって願ってもないことであった。
 柳原町矯風会が具体的な活動を始めるにつれて、 吉村の行動がますます前面にあらわれていった。 矯風会の目的のひとつに、 仕事の確保があったが、 前にも述べたように、 会は人力車およびミシンを購入し、 これをもとに仕事を増やそうとしたが、 この双方とも、 吉村が取り締まった。 矯風会の人力車には、 同会の小旗をつけて、 車夫に次のような証明書を持たしたが、 そこには塩小路警察署長の指揮監督が記されていた。

  謹  告
 人力車夫
本会は町内風俗改良細民救助を目的として起り、 其基本資金を得るために塩小路警察分署長の指揮監督を受け営業するものに付、 同情に富める各位の御乗車を請ふ。 車夫は十分親切丁寧を旨とすべき筈に付、 御安心御乗用下され度く、 万一御気に召さぬ不都合これ有り候節は、 前記氏名を上けて本会若くは塩小路警察分署へ御一報相願い度く、 本会は誓て改良発達致すべく御厚情深く感謝仕るべく候。 以上。
明治四十一年七月
      紀伊郡柳原町矯風会

 またミシン実習開始から一か月後の修了式には、 吉村が 「告評」 を行ない、 唐瀧、 玉置・荒木らが祝辞を行なうという奇妙なこととなっていた。 矯風会の事業であれば、 唐瀧が 「告評」 を行なうはずのものであったろう。 九月の例会でも、 吉村はミシン部の景況を 「本町空前の福音なり」 と述べている。
 いっぽう政府は一九〇八年 (明治四一) 九月一日から三六日間にわたって、 内務省主催の第一回 「感化救済事業講習会」 を東京国学院大学で開催したが、 その会期中に留岡幸助は彼の自宅にある 「家庭学校」 に、 同講習会に出席していた岡本弥を招き、 部落問題についての座談会を開いていた。
 そしてこのころ、 内務省内に留岡幸助を会長として 「特殊部落研究会」 が設置され、 日露戦争後の国民統合政策のなかで、 部落改善政策が重要問題として捉えられていった。
 感化救済事業講習会終了直後の一九〇八年一〇月一四日に 「戊申詔書ぼしんしようしよ」 が出された。 勅語をもって、 国民に 「戦後日尚浅ク、 庶政益々更張ヲ要ス。 宜よろしク上下心ヲ一ニシ、 忠実業ニ服シ、 勤倹産ヲ治メ、 惟レ信惟レ義、 醇厚俗ヲ成シ、 華ヲ去リ実ニ就キ、 荒怠相誡メ、 自彊息やマサルヘシ」 が要求された。 勤倹力行のその趣旨は、 翌一五日の地方長官会議で各地方への徹底方が訓示された。
 柳原町矯風会の方針は、 この詔勅によって公的な裏づけがなされ、 地方改良事業のひとつとして支援されたのであった。 矯風会の例会で玉置校長による詔書奉読が行なわれることとなった。 また玉置校長は、 小学校でも尋常小学四年生以上の児童を集めて、 毎日曜日、 戊申詔書に関しての談話会を開くなど、 戊申詔書の徹底普及に努めた。
 それを通じて、 玉置も矯風会活動に積極的にのり出していった。 矯風会からの依頼として、 吉村と玉置は、 申し合わせ規約の実施のために町内を巡回し、 戊申詔書の説明などを行なった。 二人は、 町内の高利貸が人びとの生活を破壊しているとして、 高利貸対策にもとりかかった。 どれほどの効果があったのか、 吉村の努力で高利貸に追い回された町民が貯金をするまでになったという記事が報道されたりする。 警察署長と小学校長の行動が注目され、 唐瀧ら町民は背後に押しやられてしまっていった。
 吉村が、 『日出新聞』 明治四一年一二月八日〜一一日付に 「特種 (ママ) 部落の民」 (三回) を連載したのは、 こんなときであった。
 この文は、 前述の 『警察協会雑誌』 に載った 「吾人の見たる特種 (ママ) 部落」 を要約したものである。 だが 「特種部落の民」 には、 「吾人の見たる特種部落」 に書かれてあった柳原町の改善の歴史や吉村が町議会で述べて、 議員たちの同意を得た箇所もスッポリと抜け、 ただ吉村が自分の力だけで矯風会を発起・組織・運営している印象を与えるものであった。
 この連載は 「戊申詔書」 が出され、 詔勅にそった上からの改善が全国各地で推進されようとしているときに、 先駆的業績として新聞等で取り上げられている柳原町矯風会を取り仕切っていた吉村の本音があらわれたものであった。
 すでに有名無実なものに祭り上げられていた唐瀧庄三郎町長が矯風会の会長を辞任するのは、 この連載の最中であった。 町の中心人物の辞任は、 吉村にとって衝撃であったろう。 唐瀧は即刻顧問に引き止められた。 そして小学校長で同町民でもある玉置嘉之助が会長職を継ぐことになって、 何とか会の態勢をつくろった。
 唐瀧の会長辞任と玉置校長の会長就任は、 柳原町矯風会が形式的にも実質的にも部落改善政策のひとつに過ぎないことを明確に象徴した事件であった。 「戊申詔書」 とそれに続く地方改良運動のなかで、 各地に改善団体が政策的につくられ、 京都でも、 愛宕群田中村の自彊会、 乙訓郡神足村、 愛宕郡野口村、 相楽郡加茂村、 同郡木津村、 綴喜郡井手村と、 改善団体が設立され、 他村からの柳原町視察や玉置会長の他部落への講演などで柳原町はその範となるべきものであったが、 その柳原町矯風会の消息は、 唐瀧の会長辞任後半年も新聞に載ることはなかった。
 その間、 部落民は指導誘掖すべき客体でしかないとの世論が作りだされ、 部落民に対する精神的・現実的な締め付けがすすめられていった。

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    3 矯風会活動の衰微



 唐瀧庄三郎の会長辞任後、 半年振りで報道された柳原町矯風会に関する記事は、 一九〇九年 (明治四二) 五月一七日から二〇日の四日間にわたって行なわれた講演会である。
 講演の内容の詳細はわからないが、 「過般来、 数回顧問吉村塩小路署長を聘し、 矯風上に関する談話会」 ( 『大阪朝日』 京都版、 明治四二・五・二三) 「桜井紀伊郡長は広島県下の模範村賀茂郡広村の視察」 (同上) 「昌谷 (京都) 府内務部長教育普及及貯蓄奨励の事を談話」 ( 『日出』 明治四二・五・二三) と書かれてあることから推察して、 柳原町矯風会は、 町民組織というよりは 「戊申詔書」 に基づく地方改良政策の徹底のための上意下達組織となっていることがわかる。 この講演会で一か月後に迫った一周年記念に備えて六四名の役員は一人に付き一〇名宛の会員を集めることが決められた。 一周年を期に矯風会のテコ入れが行なわれようとしたのであろう。
 柳原町矯風会の一周年記念は、 一九〇九年 (明治四二) 六月一五日に一部落成した柳原尋常小学校の新校舎で開かれた。 参会するもの数百名。 来賓として大森府知事、 滝川検事正、 林本派本願寺布教師、 府事務官、 府視学官、 京都連隊区副官、 市内各警察署長、 紀伊郡内各官衙長官、 同郡内町村名誉職員、 京阪新聞記者等数十名が招かれた。
 同記事を報ずる新聞記事には 「柳原町矯風会は、 風紀の改良、 貯蓄心の涵養、 智識の啓発といふ三大目的を以て役員等が非常な熱誠で努めた結果着々事業の成績が挙って、 人力車の賃貸と婦女部のミシン講習は確実な仕事となって了ひ、 毎月例会の講話にはいつも満員になる好成績を得てゐる」 ( 『大阪朝日』 京都版、 明治四二・六・一七) 「会員は戸数千四百余戸に対して八百九十七人」 (同上) 「貯金総高は七百一円三十銭、 現在貨俥 (人力車のこと) 二十三輛」 ( 『日出』 明治四二・六・一六) と記されていた。
 矯風会は、 病欠の唐瀧町長に代わって桜井紀伊郡長の 「戊申詔書」 奉読から始まり、 善行会員の表彰ののち、 来賓の祝辞となった。 大森知事は、 個々の会員で表彰に価するものができたが、 町全体ではまだまだであり、 「会の真実の事業はこれから」 といい、 未納税者が依然として多いこと、 会の決まりの時間が守られぬことなどの苦言を呈した ( 『大阪朝日』 京都版、 明治四二・六・一七) 。 また滝川検事正は、 一年前に比べて改善されたが、 今後もその熱心さを持続して 「その効果を全国に及ぼすの覚悟を実現して貰ひたい」 と述べた (同上) 。
 記者は 「祝詞に代ふるに苦言を貰うのは有難くないやうであるが、 一面から考へれば甚だ喜ぶべきことなのだ」 と、 つまり町全般が改善されたので、 まだ改善されない点が目立つのだと、 苦言を有難く思うようにと記した (同上) 。
 この記事 ( 『大阪朝日』 京都版) を読む限り、 記念会は盛会のうちにとり行なわれたとみえる。 ところがしばらくたって、 『日出新聞』 (明治四二・七・六〜七、 二回) に寄せられた投書 (紀伊郡吉祥院村、 安田木母 「柳原矯風会に於ける吾輩の所感」 ) によって同記念会がいかに町民を軽視した沈鬱なものであったかが明らかにされた。
 この投書によると、 正面の左右にズラリと来賓が席を連ねていたが、 大森府知事は、 前記のごとく不平や苦言をいい終わると席を立ってしまう。 すると知事の随行員も警視警部も帰ってしまった。 そのうち郡長や郡視学も、 町村長のあるものも、 新聞記者も、 僧侶も続々と勝手に帰り、 「 (来賓たちのいた) 一角がげそりと淋しくなった。 」 「荒涼たる空席の左右には、 吉村署長を筆頭に、 数名の巡査部長と組合町村長並に小学校長と我等の父老郷党とが居残るばかり」 となってしまった。
 講演内容も、 苦言や同じ内容が繰り返され、 「態度の陋劣口吻の軽佻、 人をして覚えず目を蔽はしめるものもあり」 全く集まった町民たちを軽視したものであった。 だが町民たちは、 こんななかでも 「皆神妙に聴いていた」 のである。 この状況をみた会長である玉置は、 次のようにいった。
私共は児童教育といふ本業のある身で授業を終ってから其片手間にやる仕事なんですから、 ツヒ開会時間を遅らせまして知事閣下よりも御叱りを蒙り、 多数来賓諸君へも御迷惑を掛けました段は、 何とも御詫びの申様がありません、 私は前刻より来賓諸君に対し、 一面会員諸氏に対して、 ここに居堪らぬ程つらい思ひを致しました ( 『日出』 明治四二・七・七)。
 玉置の沈痛な挨拶は、 唐瀧の会長辞任後、 小学校長として会長職に任ぜられたが、 活動の力を注いでも、 彼の活動を補佐する有力な町民もなく、 孤立した会長の立場と、 発足当時と違って町民の発言もなく、 ただ町外の名士たちの祝辞ならぬ訓辞を聞く会となってしまった矯風会記念会をどうすることもできぬ町出身の小学校長の姿をあらわしていた。
 この一周年記念会の数か月前の二月に柳原尋常小学校新築のための砂持ちを、 町民総出で行なったことはさきに述べた。 自分たちの小学校を造るための町民の、 あの活気に溢れ、 喜びに満ちた姿は、 この記念会のどこにもみられることはなかった。
 一周年記念会の終わりに、 「柳原町歌」 を柳原小学校の児童に歌わせた。 歌詞は玉置校長が作ったものであるが、 作製時期はいまのところ判明しない。 おそらく矯風会発足以前であろう。 その歌は次のとおりである。

    京都府紀伊郡  柳原町歌
               玉置嘉之助撰

(一)やなぎわみどり    ふかくして
  柳     緑        深

 かものながれの    いろましぬ
  加茂   流         色
 柳 原 て う    わがまちわ
                 我 町
 しちじょーえきの   ひがしにて
  七   条   駅      東
 こすーいちせん    ゆーごひゃく
  戸 数 一 千       有  五  百
 じんこーろくせん   はっぴゃくよ
  人 口   六 千      八  百  余

(二)とちせいさんの    なだかきわ
  土 地 製 産       名  高
 はきものしゅこー   かわざいく
  履  物  手 工     革 細 工
 はなをむこーがけ   げたおもて
  花   向   掛     下 駄 表
 せったゆきぐつ    くつかばん
  雪  駄 雪 靴       靴  鞄
 ぐんよーゆしゅつ   そのがくは
  軍  用  輸  出     其   額
 いくじゅーまんに   のぼるなり
  幾  十  万        上

(三)さてはがくこー    しょーひんかん
  扨   学   校       商   品  館
 ぎんこーそーこ    すいしゃとー
  銀  行  倉  庫       水  車  等

 そのはんじょーも   しらるべし
  其  繁  昌        知
 なほもはげみて    おこたらず
  尚    励          怠
 きんとけんとの    こゝろにて
  勤    倹          心
 みくにのために    つとめよや
  御  国  為         勉

(四)はなのかげさへ    かんばしく
  花   影          香
 さくらだをーの    きねんひわ
  桜   田  翁       紀  念  碑
 そのなをしらぬ    ひとぞなし
  其  名  知        人
 やなぎのけぶる    はるのあさ
  柳             春   朝
 つきのさえたる    あきのよる
  月    冴         秋   夜
 あそびにきませ    よものひと
  遊    来         四方  人

 この歌は、 一八七七年 (明治一〇) 以来教育者として町の歴史を見つめづけてきた玉置のわが町への思いを込めたものであり、 町と仕事と桜田儀兵衛以来の伝統を誇り高くつづったものであった。
 小学校児童の歌うこの町歌を聞いて、 記念式典に参集した町民たちは初めて蘇った思いにひたっていたという ( 『日出新聞』 明治四二・七・七) 。 安田木母は 「人は虚飾をこれ事とする世に、 この真率にして偽りなき歌を罪のない少年の口から聞かされた僕は、 坐そぞろに暗涙を催すを禁じ得なかった。 僕はこの可憐な小国民に対しても、 前の退席者や下手な長談議をやった手合が甚済まぬと思ふ」 と記した。 後日安田木母の投書に対して、 反論が投ぜられている。 そこには、 矯風会記念会は祝賀式ではないのだから訓辞でよいのだとする、部落民を指導されるべきものと固定した考えが示されていた。
 柳原町の現実は、 例えば産業にしても学校にしても、 歌詞とは裏腹な困難な状況に陥れられていた。 「遊びに来ませ四方 よ も の人」 と呼びかけた、 その 「四方の人」 のつくる差別の壁にとりかこまれたなかで生きざるを得ない状況であった。だがそのなかで、町民たちの町への思いは涸れることはなかった。 矯風会発足当初にみせた町民たちの熱意は、 自分たちの改善運動の伝統の延長線上のものとして矯風会を理解したところから生まれたものであり、 学校建設の砂持ちにみせた町民たちに熱気は紆余曲折の後にやっと自分たちの小学校を造りかえることができた喜びからでたものであった。
 柳原町矯風会は、 柳原町民の町への思いとはかけ離れたところにきてしまっていた。 矯風会会長として、 矯風会と町民の間に立つ玉置はすでにそれを自覚し、 身動きならぬ自身に悲鳴をあげた。 町民たちは矯風会への非協力によって、 矯風会活動を有害無実化していくのである。
 一周年記念後の一九〇九年 (明治四二) 一〇月二六日、 矯風会は納税に関する講演会を開いているが、 これは大森府知事の納税履行の訓示に応えたものであった。 その後の矯風会の消息は、 翌一〇年六月に評議員の減員、 ミシン事業の中止などの組織活動の縮小が伝えられ、 一九一一年六月一五日には柳原小学校で第三回記念式が行なわれたことだけが記され、 「久しく中絶の姿」 であった。 この間、 玉置は校長職を引退し矯風会の会長も辞めたと考えられる。 玉置の校長在職は二〇年八か月で、 教員年数を入れると、 三三年間の柳原小学校勤務であった。 玉置の後任校長には三重県出身の坂口才之助が任命されている。
 一九一二年 (明治四五) 二月二六日になり、 矯風会再興が計画され、 小学校で高木紀伊郡長、 吉村七条署長らが講演し、 四〇〇余名が参加した。 そして同年六月二〇日には、 四周年記念式を開いている。 木村艮代議士、 高木郡長、 寺本郡視学、 吉村七条署長、 坂口校長らが講演しているが、 この席上、 四年間貯金をつづけたもの九〇名が表彰された。 発足一年で九〇〇人近くいた会員で、 継続したものはわずか九〇名に過ぎなかったことがわかる。
 矯風会の再興計画は、 「大逆」 事件後に内務省がそれまで地方行政を通じて行なっていた地方改良事業を、 直接把握しようとする気運にそったものといえた。 だが矯風会の再興はなされず、 矯風会はそのまま消え去ってしまっている。 そして新たな改善運動が表面にあらわれるのは、 矯風会活動の四年の間、 全くその名もあらわすことがなかった町の有力者・明石民蔵であった。


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三、 京都府同志会と柳原町



    1  「細民部落改善協議会」 の開催



 一九一一年 (明治四四) 六月、 内務省は省務として取り扱う重要政策項目を次のように定めた ( 『大阪時事新報』 明治四四・六・五) 。

  公益団体調査
  地方青年団体表彰
  特殊部落の開発(府県当局者による調査研究、 地方講演会 国庫からの奨励金下附を計画中)
  感化救済事業の奨励
  危険思想防止
  その他

 日露戦争後、 「戊申詔書」 にのっとった地方改良政策の一環として部落改善が推進されたが、 その内容は各地方行政に委せられていた。 内務省は、 それらの功労者を表彰するという形でたずさわっていたのだった。 だが、 「大逆」 事件を経て、 「施薬施療」 に関す勅語 (=済生勅語) にみられるように、 天皇を前面に立てての救済が政策として打ちだされるにつれて、 部落問題も政府・内務省の掌中に握らんとの気運が生まれてきていた。 内務省が政策遂行に乗りだしたもうひとつの理由は、 柳原町矯風会の例にみられたような、 そして後述の 「大和同志会」 へ到る過程でみられるような地方行政による改善事業が停滞していたことであろう。
 内務省は、 一九一一年 (明治四四) 六月五日に第一回 「細民部落調査会」 を同省地方局で開催し、 床次竹二郎地方局長、 有松警保局長、 井上友一神社局長、 中川望参事官らが集まって、 地方改良事業施行の必要上からまず全国の細民部落の生活状態調査に着手することを決定、 東京から実施することとなった。
 この細民部落調査会は 「貧民調査会」 「細民調査会」 とも呼ばれ、 一一年六月から一二月にかけて数回開かれている。
 細民部落調査会は、 部落を調査対象のひとつとしており、 全国の部落調査が、 六月以降内務省の吏員 (嘱託) を派遣して行なわれた。 そして、 内務省は七月に 「特殊部落調査」 の項目を次のように決定し、 各地方長官に調査方を委嘱することになった。

一、 宗教の種類
二、 生業の状態及び其の一人一日の収益
三、 教育機関殊に義務教育の有無
四、 婚姻、 初婚者年齢及離婚の現状
五、 衛生設備
六、 娯楽機関の有無及其の種類
七、 金融機関殊に質屋、 信用組合の状況
八、 市場の状況
九、 青年会等の有無

  「項目」 決定に併行して、 内務省地方局は床次地方局長出席のもとに七月二〇日 「特殊部落研究会」 を開き、 各地の視察の報告を行なわせている。 内務省は 「従来地方庁に於て夫れ夫れ改善に努めたるも、 今後は時々内務省より吏員を派遣してこれを誘導せしめ」 ( 『三重新聞』 明治四四・八・四) ることにしたのである。
 同年七月に決定した部落調査は、 内務省から各地方長官に委嘱した形をとったが、 実際には内務省地方局員嘱託を特別派遣して、 地方長官に督励し、 具体的に調査にたずさわっていった。 だが、 この中央官僚の画一的な調査には、 当該地の反感を買い、 地方局嘱託らに対する妨害も起きる始末であった。
 部落改善政策の統一を計った内務省ではあったが、 調査段階で早や行きづまってしまった。 このため内務省は調査を、 従来改善事業に従事していた 「土地の小学校教員、 僧侶等」 に委嘱することとなった。 そして部落改善政策の方針も、 内務省による指導徹底ではなく、 従来の改善事業を内務省がくみとる形をとらざるを得なくなっていた。 この方針から生みだされたのが、 一九一二年 (大正元) 一一月七日から九日まで開催された内務省主催の 「細民部落改善協議会」 であった。
 細民部落改善協議会は、 政府・内務省が全国の部落改善事業関係者を集めて、 その意見を聞くという初めての試みであった。 名称も初め 「特殊部落協議会」 として開催する予定であったが、 部落の側からの抗議で 「特殊」 に代わって 「細民」 とされた。
 細民部落改善協議会には、 各府県町村官吏、 教育関係者、 宗教関係者など一三六名が招集され、 内務省がわからは、 床次内務次官、 水野錬太郎地方局長、 中川望書記官、 留岡幸助内務省嘱託、 小河滋次郎同、 生江孝之同などが出席した。
 水野地方局長の訓示にみられるように、 内務省は、 部落改善は政府による 「唯だ冷かなる一片の訓示とか命令とか法律とか云ふやうなものでは行くものではない。 」 「政府の力官吏の力」 だけでなく、 「監督の局に当って居る所の内務省の人、 県庁の人、 郡役所の人、 併せて又其地方の篤志者、 有力家、 或は教職にあられる方、 或は又宗教方面からして精神的の指導を為さらうと云ふ所謂宗教家のお方々」 が一致して、 「官民一致」 「朝野協力」 して行なうとの方針を確認していた。
 協議会では、 教育・風俗・職業・居住・衛生及び治療・納税・金融及び貯蓄・社交・改善機関・神社・宗教・移住出稼などの現状が、 項目別に各地から報告されたが、 その報告に基づいて内務省が具体的な施策を打ちだすことなく終わってしまい、 改善事業のテコ入れとはならなかった。

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    2 細民部落改善協議会と明石民蔵



 日露戦争後の改善事業の性格を反映して、 細民部落改善協議会に招かれた部落民は、 一三六名中一〇数名に過ぎなかった。 だがその少数の部落民は、 同協議会に大きな期待をもっていた。 「大和同志会」 からの出席者・小川幸三郎 (緑雲) や柳原町の明石民蔵は、 改善事業への批判を、 この席上で展開しようと計画していたと考えてよい。
 同協議会の開催に先立つ八月二〇日、 奈良市西之阪町明光寺で 「大和同志会」 が結成された。 同会は、 その創立大会に、 若林賚蔵県知事以下、 県高等官、 奈良市長、 郡長、 警察署長などが招かれるなど、 奈良県主導の矯風会事業の延長にあるようにみられたが、 大和同志会の目指したものは、 矯風会事業の批判のうえに立つ部落民主導の改善運動の構築であった。
 大和同志会の創立大会に招かれた中野三憲、 岡本弥らは、 細民部落改善協議会への出席を呼びかけた。 大和同志会の松井庄五郎 (奔泉) と緑雲小川幸三郎は協議会で改善政策の改変を呼びかけんと、 同協議会の一週間前に内務省に演題を提出していた。
 同協議会当日、 緑雲の 「根本要議に付陳情せん」 とする発言は、 座長 (水野地方局長) による逐条審議決定を盾に封じられ、 緑雲はやむなく協議会後の懇談会席上で発言することとなった。
 緑雲のその演説は 「改善に対する吾人の主張」 と題して 『明治之光』 (第二〜五号、 一九一二年一一月〜一三年三月、 四回) に掲載されている。 それによると、 緑雲ら大和同志会同人が求めたのは、 従来の国家本位の改善だけでなく、 部落民本位の改善をすすめよというものであった。
 緑雲はいう。 国家本位の改善は 「部落の幸福利害得失を考」 えることなく、 「唯彼等の欠点を見て之れが矯正を企てた」 に過ぎず、 「消極的改善法と云ふので之れ従来吾人が執りつつありし矯風会なるものゝ目的で在つたのであります。 この目的の為めに吾人は日夜脳漿を絞って改善策を講じて見たが事志と違ひ一つとして良結果を得たものは無く却て部落民の反感を買て彼等の反対運動に遭遇し遂に矯風会事業も今や……全々下火になつて終つて居る」 と。
 緑雲は 「吾々社会の矯風も必要だが、 一般社会の矯風も必要ではないか」 と考え、 一般社会に対しての部落民の利益保護や権利の主張を、 彼は部落民本位を目的とする 「積極的改善」 と名づけた。
 消極的改善は部落の悪風矯正であり、 具体的には犯罪の撲滅・早婚及び近親結婚の矯正・盲動の矯正・不就学及び欠席の矯正・勤倹貯蓄・衛生の励行である。 つまり、 従来の部落改善の主要目的である。 それに対して積極的改善は人材登庸・特立 (部落) 小学校の合併・殖産興業・異名 (差別語) の根絶・交際の深化とされた。
 この二つの改善の着手順序は人材登庸・貧民救済・衛生の励行・教育の奨励・勤倹貯蓄である。 部落を囲い込む差別の打破が、 まず第一の目的とされなければならないと主張した。 緑雲らは、 全国から招集された改善事業担当者に、 このことを訴えたかったのである。 前もって内容を知らされていた内務省は、 緑雲のこの問題に関する発言を阻んだといえる。
 逐条審議に関して、 緑雲を初めとして部落民は多くの発言を行ない、 内務省もそれを許していたが、 肝心な点は封じ込めようとしたのだった。 だが緑雲に代わって、 改善事業の改変要求が協議会席上で述べられた。 その発言者が 「細民部落改善大会柳原町委員」 として出席していた明石民蔵であった。
 明石は他の出席者同様に、 教育の不振・住居の汚廃・言語の粗暴など一六項目をあげ、 部落の現状を次のように述べた。
 明石はいう。 「如上の欠点は吾人同胞の通幣である。 この通弊こそ融和の障害物であるを自認して居り升。 部落改良の指導者篤志家は此等の諸点に着眼せられ改良に御尽力願いたいので有升」 (明石民蔵 『細民部落大会報告書』 ) と。 そしてこれにすぐ続けて、 次のように付け加えることを忘れなかった。
去りながら斯の大会の目的とする融和に付き他の階級に於ても聊か誠意の欠如せる点が有るので有る。 否な不謹慎なる点が無いでも無い、 其の大概を挙指し此の点に付き御注意が願いたいので有る。

一、 憲法の精神を重せん (ママ) せさる小官吏の悪弊
二、 細民部落を一概に蔑視し自己の分限を没却する弊
三、 人才登用の国憲に反し優秀の適才も細民部落の人民を採用せざる当局の変則
四、 中等以上の就学に困難ならしむる当局の圧迫
五、 公明正大なる法廷に於て当局の不謹慎、 仮令たとえは部落民被告人の罪を論告するに当り全体細民部落民は性、 慚忍酷薄なりと罵るが如き口吻
六、 新聞雑誌其の他の文書を以て部落民の悪感情を惹起せしむる記事、 仮令は犯罪事故は其の特種民なりと冠し善行者は普通町村名に止めること
七、 政治宗教其の他の談話、 演説会等に於て其の悪例の犠牲たらしむること
  某文部大臣か演説の例証に (穢多と道連) と公言せし口吻の如き
八、 無意味なる職業の蔑視
如上の宿弊は一般部落の以伝 (ママ) 的習慣で有る。 此の宿弊は独り吾人部落に悪感を増すのみに止まらす、 延て国家経済の上に於て甚だ不利益を招くので有る。 苟しくも人道を知り国家社会を思ふ者の処業として、 斯の有害無益の言を弄するは誠に其徴を慎まさる無謀の輩と信するのである。

 明石の発言は、 逐条審議の議事進行に反しており、 主催者は不快感をあらわしたであろう。 しかし明石は 「逐条審議の御宣告にも抱わらず、 斯く枝葉に亘り大体の愚見を供述して多くの時間を妨けました段、 深く謝罪致し置升」 と、 発言を締めくくった。
 ところで内務省がまとめた 『細民部落改善協議会速記録』 には、 逐条審議における明石の発言記録があるが、 上記の箇所はカットされている。
  「大和同志会」 の創立大会に、 柳原銀行頭取として招かれていた明石民蔵である。 緑雲と明石発言の類似から考えて、 大和同志会の小川緑雲と、 京都の明石民蔵とは前もって細民部落改善協議会での発言を討議していたに違いない。
 明石と緑雲との協議会の席上を利用しての改善事業の改変要求は、 根本的な問題にふれることを拒み逐条審議しか許さぬ内務省の姿勢のために成功したとはいいがたかった。 だが緑雲や明石は、 自分たちの方向を定めてすすんでいくことを明確にしたのだった。
 あれほど喧伝された柳原町矯風会の事業に関与した形跡がなかった明石民蔵は、 実は矯風会の批判者であり、 矯風会に代わって大和同志会と連絡をとりつつ、 柳原町の改善に乗りだそうとしていたことが、 この協議会での彼の行動から伺われる。 明石は、 柳原町への 『報告書』 の末尾に 「所感」 として次のように記した。

精々這般内務省ニ於テ我カ同胞ノ改善ヲ促ス為メ手段方法トシテ大会ヲ省内ニ開催セラレ、 全国ノ斯道研究ノ有志ヲ一堂ノ下ニ集合シ、 以テ各人ノ意見ヲ聴キ、 政府当局ノ参考ニ資セントセラル。 国家社会ノ為メ彼レ部落ノ為メ用意周到ナリト言ヲ得ベシ。
然リ而シテ彼等部落民ノ最大目的トスル所ハ国家社会ノ為ノミニモアラス。 又生活高上 (ママ) ニモアラス。 単ニ願フラクハ一般社会ト融和握手シテ、 以テ冠婚葬祭ヲ倶ニシ、 人種的隔離ヲ消滅セシメン事ヲ之レ努メ、 依リテ以テ精神煩悶ノ苦痛ノ境ヲ脱セントスルニアリ。

 この文章には、 前記の具体的提案とは異なって、 部落問題の精神主義的解決が述べられているが、 その真意は部落外の人びとによって作られた差別の壁をとり除くことを、 部落民にではなく、 部落外の人びとに求めたものであった。 日露戦争後の改善事業で、 余りにも部落民にそれを課すのみであり、 差別の原因を取り違えた人びとへの抗議を含んでいた。
 その明石は、 細民部落改善協議会に参加した部落外の有志を次のように分類している。

(一)人道ヨリ観察シタル救世家……10
(二)国家社会ヨリ観察シタル経世家……20
(三)慈善ニ依ル熱心家……10
(四)相殺互譲的ノ有志家……30
(五)敬遠主義ノ有志家……10
(六)職責ニ依ル有志家……10

 そしてこのなかで、 彼は(一)と(二)を恩人であるとし、 その他の人びとは、 それから除外している。 いっぽうで篤志家に感謝しつつも、 もういっぽうで篤志家というものの性質を見抜いていた明石は、 部落民が中心となった運動づくりを探っていくのであった。

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    3  「関西同志懇談会」 と帝国公道会



 京都府下柳原町から 「細民部落改善協議会」 に出席したのは、 柳原尋常高等小学校学務委員の肩書きをもった明石民蔵一人であり、 矯風会の中心人物吉村盈は出席していない。 このことは、 前章で述べたように、 柳原町矯風会が立ち消えていたからだと考えてよいと思う。
 細民部落改善協議会から戻った明石民蔵は 「大和同志会」 と同じような部落民主導の改善団体を京都に組織せんと試みる。 明石は 「京都府同志会の組織を企画し府下同憂の志士に檄を飛す」 を書いて、 雑誌 『明治之光』 (第五号、 一九一三年三月) に掲載した。
 明石はいう。 「旧来の陋習に基く社会の迫害に依り、 其の享有せる幸福を減殺せられ、 既得の権利を阻遏せらるる」 状況を打破するのは 「吾人の責任義務として目下の一大急務なりとす。 」 今まで状況打破ができなかったのは 「啻に世人の旧習を墨守すること深甚なるに基因するのみならず、 亦吾人同志の因循にして自動的活動を為さず、 徒に世人の覚醒に依頼したる罪少しとせざるなり」 と。
 この教訓から明石は 「吾人茲に看る所あり在来の如く世の覚醒を持つて自己の幸福を増進し、 利権を伸張せんとするが如き姑息手段に依らず、 大に自動的活動を起し以て内を整へ、 外に佝へ (ママ) ん欲す。 」 そのためには、 同志の一致団結が必要となる。
吾人の微意を諒とせられ府下同志の一致団結を得ば内を整へ、 外を徇ふに適当なる機関を設け、 拮据黽勉以て事に当らんとす
 明石は、 日露戦争後の改善事業を清算して明治三〇年代の自主的改善運動の再興を図った。
 明石の檄文が載った 『明治之光』 の同じ号の編集後記には、 柳原町の有志が 「京都府同志会」 結成の準備として、 まず 「柳原町同志会」 を組織したことが報ぜられている。 そしてその次の号 (同雑誌第六号、 一九一三年四月) には柳原町青年会員柳青の署名で 「同族の改善と青年」 が寄稿され、 青年団は同志会組織と一致協力するとの意志表明が行なわれた。 柳青は、 同志会の趣旨を次のように捉えていた。
先づ以て内を整へ、 我が短を去り、 彼が長を取り、 只管学術技芸の研鑚に勉め、 世の進運に遅れず、 以て一般社会伍班に列して敢て遜色なき所の人材を養成して、 其附與せられたる公権を保留し、 社会の制圧を除去し、 吾人同志の体面を維持する趣旨に外ならず。
 明石の檄文も柳青の寄稿文も、 一九〇二年 (明治三五) 八月に三好伊平次らによって組織された 「備作平民会」 設立の趣旨書を思いださせる。 そしてその三好伊平次 (黙軒) も、 日露戦後の沈黙を破って、 「岡山県同志会」 (一九一四年一〇月創立) の会長として改善運動に復帰してゆく。
 京都府同志会の分会として設置された柳原町同志会は、 その第一の事業として町役場内に 「東亜慈恵巡廻病院柳原常設医院」 を設置し、 電話器など二百六十五円相当の備品を提供している。 これに続き、 柳原町同志会は、 柳原町の財政建て直しに着手し、 電燈と浴場の町営化を打ちだし、 町会に提案した。
 浴場については、 従来の個人営業六カ所を買収し、 その他に一カ所新築するものであった。 また使用されはじめた電燈事業を、 町で始めようとするもので、 その資金五万円は、 二〇年賦の町債発行でまかなおうとするものであった。 浴場の町営化は具体化し、 一九一三年 (大正二) 一一月段階で二か所の個人営業を残すのみとなっていたが、 電燈事業のその後の状況は不明である。
 京都で明石民蔵が、 京都府同志会を計画したのと同じく、 各地でも同志会組織が結成されていった。 一九一三年の出雲同志会 (五月一五日創立) 、 三重県同志会 (九月二四日創立) 、 翌一四年の岡山県同志会 (一〇月二八日創立) などである。
 なお福岡・小倉での改善団体 「鎮西公明会」 創立のきっかけを作った一人が、 明石民蔵であることは、 小稿 「公明会とその同人たち」 ( 『部落解放史ふくおか』 第二〇・二一号、 一九八〇年) で述べたとおりである。
 明石民蔵たちは、 自分たちの部落での分会、 それをまとめる各府県の同志会、 その上部の全国組織=大日本同志会設立に向かっての組織づくりを行なっていたといえた。 しかし、 明石らの試みは、 彼らの計画どおりにはすすまなかった。
 大和同志会とその機関誌 『明治之光』 は、 奈良県下のみの団体と機関誌ではなく、 全国組織の核となるべきものであると、 全国各地の改善運動家から目されていたが、 早くも一九一三年 (大正二) 一一月には、 大和同志会の内紛と 『明治之光』 の誌代回収の失敗による資金不足から、 両者の分離がはかられた。 その後、 『明治之光』 は、 大和同志会のなかでも士族株を購入するのに象徴される、 既成社会への順応を第一とする松井庄五郎 (奔泉) の個人的影響の強いものとなってゆく。
 この事態は、 地方の運動家を落胆させた。 一九一四年 (大正三) 一月から明石民蔵が 『明治之光』 誌の会計主任となり、 同誌のテコ入れをするが、 成功せず、 一九一四年 (大正三) 四月から翌一五年一〇月まで休刊のやむなきに至った。
 明石たちの自主的改善運動の組織結成という計画に暗影がさしかかってきたとき、 彼らの計画を上から吸いとってしまう全国組織として 「帝国公道会」 が発足する。
 帝国公道会の設立は、 一九一二年 (明治四五) 六月一八日に岡山県の蟠司為次郎と、 山口県の東本願寺派西教寺の住職岡本道寿とが発議し、 「解放令」 発布の立役者でもある大江卓に入会を勧誘するところから始まった。 一九一三年 (大正二) 五月に入会を承諾した大江は、 翌六月二六日に大木遠吉、 板垣退助、 渋沢栄一ら政財界の重鎮を網羅して 「帝国公道会」 の創立を発表。 一〇月九日には、 東京商業会議所で帝国公道会首唱者会議が開催され、 三四名が参集した。 そして翌一九一四年 (大正三) 六月七日には、 創立総会が 「来賓として板垣伯、 花房教育会長、 鎌田慶応義塾長、 黒板文学博士、 渡辺地方局長代潮参事官」 らを招き、 会員数十名参集して、 東京商業会議所で開かれた。 この間、 大江は、 政財界への働きかけと、 全国各地に地方会員を集めてまわった。
 細民部落改善協議会を好機として、 自主的改善運動への改変をはかろうとした大和同志会をはじめとする部落民の動きとその後の各地の同志会結成を、 大江は見きわめつつ、 慎重に帝国公道会結成の根回しをしたといえる。 大江は、 部落民による自主的運動を統合するものとして帝国公道会を位置づけていた。
 大江は、 帝国公道会創立発表前の一九一三年 (大正二) 四月に大和同志会と接触をもち、 大和同志会の松井庄五郎に次のようにいわせた。
要するに帝国公道会の趣意と、 本社 (明治之光のこと−−−著者注) の主義とは全く一致し、 其方針に至ては彼は、 吾人の各府県に、 競ふて勃興する、 同志会を統一すべき、 機関にして、 吾人同志と中央社会の、 華族名士とを握手せしめ、 相共に邦家の為めに、 盡瘁せしめんとの意に外ならず ( 『明治之光』 二巻九号)。
 大和同志会の帝国公道会への協力表明は、 重大な路線変更であった。 だが、 松井奔泉ほど中央志向が強くないにしても、 自主的改善運動を主張しながら細民部落改善協議会への期待にみられたように、 上からの改善も拒否することはなかった各地同志会の指導者たちも、 路線変更のもつ重大さに気づくことはなく、 一九一四年 (大正三) 六月七日の帝国公道会創立総会を歓迎した。
 そのうえ一九一四年四月から 『明治之光』 が財政危機のために休刊となると、 帝国公道会の機関誌 『公道』 が部落改善運動の中心誌の役割を果たすことになり、 帝国公道会の影響力は全国各地に大きく浸透してゆく。
 帝国公道会の影響下におかれるのは、 京都府下柳原町も例外ではなかった。 一九一四年 (大正三) 二月八日に東京本郷の喜福寺で行なわれた大江卓の得度式に、 全国各地から参列した三〇〇余名のなかに、 柳原町を代表して参列した唐瀧庄三郎名誉助役の顔があった。 それを明石民蔵は 『明治之光』 (大正三年三月号) に 「公道会の為め先生の後生涯を捧げられたるは、 部落の為め感激に堪へざる事に御座候」 と寄書した。 また 『明治之光』 編集部も、 「先醒は明治三年以来今に至るまで、 吾人を受撫し捨てざるは、 誠に部落の神に御座候」 とたたえていた。
 同志会結成に意を注ぎながら、 帝国公道会との協力関係に傾いていった明石民蔵は、 他方で彼の足場を危うくする事件にまき込まれていた。
 明石は、 この寄書の直前の一九一四年 (大正三) 一月から 『明治之光』 の会計主任となったことは前述したが、 その他にも金銭的なトラブルの解決に、 彼が乗りださざるを得ない事件が起きる。 そのひとつは、 大正皮革株式会社の倒産である。 一九一三年 (大正二) 八月ごろから不渡り手形を頻発した同社は、 役員交代や株主への強制出資割当てなどを繰り返すが、 再建できなかった。 倒産後も、 清算人の株主告訴などが続いた。 同会社は、 明石がかつて細民部落改善協議会において、 柳原町が 「他部落より一厘一毛の負債をしない」 と誇った経済基盤のひとつを支えたものであった。
 また同じ一九一二年 (大正元) 末から一九一三年 (大正二) にかけて京都府下愛宕郡田中部落の聞光寺維持講不正事件が発覚する。 この事件のあおりで、 同部落の各種頼母子講に取りつけ騒ぎが起こった。 部落の経済を支えている頼母子講の効用を説く明石は、 田中部落の講のひとつである教育講の講主を引き継ぎ、 その後始末にのりだしていた。
 柳原町同志会をはじめとして、 府下各部落に同志会組織を作らんとしていた明石にとって、 これらの事件は見逃すことのできないことであったが、 事態は好転することはなく、 自主的改善組織としての力をつける前に、 明石たちの計画は帝国公道会に取り込まれていってしまったといえた。 しかも、 明石も帝国公道会が自分たちの目的とした自主的改善運動を風化させてしまうことに気づくこともなかった。 明石は、 帝国公道会と協力関係を保ちながら、 部落民の全国団体組織の結成を求めつづける。 一九一六年 (大正五) 三月の 「関西同志懇談会」 が、 その結果であった。
 同懇談会は、 一九一五年 (大正四) 一一月の即位式記念として予定されたが、 即位式行事のために同懇談会の出席予定者が少なく、 翌一九一六年三月五日に延期されたものであった。 発起人は、 明石民蔵と松井道博 (庄五郎を改名) である。
 この両人による大会開催発起に、 黙軒三好伊平次は一九〇三年 (明治三六) 七月の 「大日本同胞融和会」 の思い出を重ね合わせて、 『明治之光』 (五巻三号) 誌上で、 「来れ来れ全国の志士よ義人よ。 来りて吾に一粒の麦子となりて、 大に我党のために尽されよ」 と、 次のように呼びかけた。
想ひ起す。 明治三六年八月  (ママ)  、 中野信山兄の主唱の下に大阪土佐堀青年会館に於て、 全国の有志大会を開きたり。 僕又発起人の一員として其席末を汚すの光栄を担った。 当時の発起人たる紀伊の両岡本、 辻岡、 永坂、 巽の諸君、 京都の益井、 大阪の中村、 柴田、 岡部、 奈良の岩淵、 小川其他の諸君が当年の意気を追憶する毎に肉躍り血湧くの思ひあり。 而して吾人発起人の期待したりし所のものは、 実に吾人と同一悲惨の境遇にある全国各地の兄弟姉妹が互に相連結して一団体を作り、 所謂首を振れば尾動く底の一大運動を試みんと欲したりし也。 然るに不正にして時未だ至らざりしためか、 将た吾人が努力の足らざりしためか、 吾人が熱血の結晶たる大日本同胞融和会は、 僅かに其第一聲を挙けたるのみにして夭折したり。 爾来十有余年、 吾人は日夜我徒の現状に憤慨し、 其運命の開拓に尽しつゝあるも微力にして未だ所期の万一を達すること能はずして今日に至りたりし也。 幸にして今回壮烈なる意気と富胆なる学殖とを有せる、 松井明光社長、 壮重なる気象と老練なる手腕ある明石柳銀  (ママ)  行頭取とによりて十数年来吾人の遺憾とせし所のものを充たされんとす。 多年天外一点の光明に到達せんと焦慮せる吾人としては実に空谷の蛩音として、 其開催の一日も速かならんことを希ふや切也。 鳴呼全国各地に於ける我党の志士よ。 義人よ。 如何なる困難支障ありと雖もこれを排除して此懇談会に来り会せよ。
 三月五日、 柳原尋常高等小学校で開かれた 「関西同志懇談会」 には、 京都をはじめ、 奈良・滋賀・大阪・和歌山・岡山などの各府県から代表者が出席し、 出雲同志会、 九州小倉の吉村浄水、 滋賀虎姫の田中豊文などから祝電・祝文が寄せられた。 座長には森秀次 (前衆議院議員) が選ばれ、 座長の指名で次の六名が実行委員となった。 明石民蔵、 永阪陸之助、 三好伊平次、 松井道博、 小川幸三郎、 森秀次である。
 主催者がわから九項目の提案がなされ、 そのうち六項目が採択された。 それは、 次のとおりである。

第一項  (撤回)
第二項 政府及貴衆両院に対し、 今一層部落改善に尽瘁せられんことを申請する の件 (採決)
第三項 内務省及府県の補助方針は可及的・部落に直覚的にせられんことを申請 するの件 (採決)
第四項 文武官の任用を拡大し、 彼我の区別なき様、 採用の方針を採らるること を申請するの件 (採決)
第五項 公文書 (仮令身元調査書) 中に特種部  (ママ)  落又は其同様忌むべき文字を記載 せざることを申請するの件 (採決)
第六項  (撤回)
第七項 本会は毎年一回全国枢要の地に於て開催すること (採決)
第八項 明治之光社援助の意味に於て、 各府県に一ケ所以上の支局を置き、 各団 体の機関として同志の連絡を採ること (採決)

 これらの決議は、 細民部落改善協議会席上明石の発言の延長であり、 かつ部落民が団結の力をもって、 対政府交渉を始めようとした画期的な意味をもっていたといえる。 同志会活動の大きな成果であった。 だが、 同時に 「関西同志懇談会」 は、 帝国公道会の指導に従うという奇妙な状態を呈した。 それは、 来賓として招いた大江天也 (卓) の演説の承認と、 差別事件の処理の帝国公道会への委任にみられた。
 大江の演説は、 第一次世界大戦下 「百二十万の同族さへ同化なし得ない国民では甚だ心細い」 と、 挙国一致体制のための部落問題の解決を唱えた。 また部落民には 「英明の天子を戴き一視同仁御恩沢に浴しながら」 一致の行動ができぬことを、 「意気地がなさ過ぎる」 と非難しながら、 さきの決議にふれて 「特種部落といふ如き文字にあまり拘泥しない方がよろしい。 教育勅語に恭倹己れを持しと仰せ有つてあるのは諸君の必得であると思はなければならぬ。 只無暗に権利呼ばゝりしてはよろしくない。 諸君が内に力を養ひ外に向つて恭倹であつたら一般民は所謂博愛衆に及ぼすの力を以て諸君と交際するであろう。 かくの如くんば数年ならじして終に諸君の望を達すことが出来る」 と、 部落民の権利主張を諫めているのである。 大江天也の演説のもつ思想は、 関西同志懇談会の目的と成果に相反するものであったといわねばならない。 だが、 名士である大江の演説は 「多大の感動を与へ」 たのだった。
 参集者たちに自覚されることのない帝国公道会による同志会活動のねじ曲げは、 同懇談会途中で起きた滋賀県蒲生郡宇津呂村小学校の教育差別に反対する同盟休校事件の処理にもみられた。 教育差別の実態と同盟休校が報告されると、 出席者たちは憤激、 代表者三名を現地に派遣することを決議した。 だが 「その形勢の容易ならざるを看取せる」 大江天也は、 代表者たちに先回りし、 郡長に問題解決を指示、 郡長主導で同小学校校長の辞任で事を収めてしまった。
 部落差別糾弾への部落民の決起に帝国公道会が介入し、 ボス的に解決することは、 この同盟休事件だけではなく、 事件解決のパターンとなっていった。 このなかで、 部落民の闘いは解除され、 同志会の活動の存在意義さえも薄れていくのだった。
 関西同志懇談会は年一回の開催を決めたが、 実現されることはなかった。 そして、 一九一六年 (大正五) 三月五日の決議は 「政変」 などを理由に放置され、 陽の目を見るのは米騒動後の一九一九年 (大正八) 二月二三日の帝国公道会主催の第一回 「同情融和大会」 を持たねばならなかったのである。

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おわりに



 明石民蔵らの明治三〇年代の自主的改善運動の再編成の計画は、 一九一六年 (大正五) 三月五日の 「関西同志懇談会」 でピークをみせ、 その後みるべきものもなく、 帝国公道会の活動に包摂されていってしまう。 その帝国公道会は、 第一次大戦・米騒動と続く政治的社会的変動のなかで、 抱え込んだ部落の有力者層を通して部落民の立ち上がりを阻止せんと動いていった。 かつて自主的改善運動を計画した有力者たちも、 部落内の貧民層の立ち上がりを、 自分たちの計画した自主的改善への力とは捉えず、 自分たちの存在を危うくするものとして危機感を抱き、 帝国公道会方針の忠実な実行者となっていった。
 一九一六年 (大正五) 三月の関西同志懇談会での決議事項が帝国議会の場に提出されたのは、 一九一九年 (大正八) 二月二三日の第一回 「同情融和大会」 直後であった。 三年も遅れたことは、 政財界の大物を網羅した帝国公道会が明石らを抱えこんでしまい、 明石らの希望を全く無視していたことを示していた。
 一九一九年 (大正八) 二月に請願を実現させたのは、 抱え込まれた部落の有力者たちの運動の成果ではなく、 前年の米騒動でみせた部落大衆の力であった。 米騒動後、 政府は一九一二年 (大正元) 一一月以来途絶えていた細民部落改善協議会を開き、 その翌月には第一回 「同情融和大会」 が開かれたのである。 この請願が、 帝国議会で採択されたとき同大会に出席した部落の有力者たちは、 次のように語った。
公道会だの融和会などと大形の名をつけて多額の金を費し何年も掛て何をして居るのだ。 殊に大江だ天也だと多年部落民のために尽力して居る様な顔をして居るけれど、 其人の行動に就ては我々は頗る面白からず思ふ所のものがある。 見よ自分等の働きは十数日の間僅かに三十円以内の費用を以て此成功をなしたではないか。
 帝国公道会の方針に忠実であった人たちからも、 帝国公道会への不満がおきていた。 だがその人たちは、 それ以上の行動へはでることはなかった。
 部落民による自己の団結組織の結成は、 部落内の有力者たちに対抗して生まれた新しい運動家の手に引き継がれねば、 前進することがなかったといえる。 そして、 明治三〇年代半ばから多くの人びとの試行錯誤を経た部落民の解放組織は 「全国水平社」 として生まれてゆく。
 明石民蔵は、 全国水平社の創立をみずに、 一九二〇年 (大正九) 六月六日、 六四歳の生涯を閉じている。 部落民の自主的団結組織の結成に二〇年来情熱を燃し続けてきた三好伊平次は、 彼の思想の具体化されたというべき水平社の結成に反対の動きを示した。 明石が生きていれば、 彼もまた同じような行動をとったであろうか。
 水平社は、 三好や明石をのり超えて創られていった。 「はじめに」 で述べたとおり、 創立者の一人・阪本清一郎にとって、 彼らは格闘すべき打倒すべき対象と捉えていた。 だが阪本たちの呼びかけに応えた多くの部落民の団結組織結成への願いは、 三好や明石たちの長い闘いによって育くまれていたものであり、 それが全国水平社に花開いたのだったといえるのではないだろうか。

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