柳原銀行史

重光 豊


1、柳原銀行以前 ---近世から明治中期までの柳原町---


 柳原町は、近世前期には今の六条河原町から鴨川東岸辺りにあり、「六条村」と称していたが、正徳4年(1714)に七条通以南の現在地(当時の妙法院領柳原荘の一部……現郷之町)に移転した。その時の戸数188戸、人口789人であった。六条村は、幕府京都奉行所より洛中警備・刑吏役を任ぜられており、その「給金」は年300両であり、この他大きな事件等があって特別警戒や出動をしたときには、そのつど臨時「給付金」が支給されていた。これは村の人口からすれば相当な現金収入であったといえる。
 移転の経緯については、京都洛中の拡域にともない、市中町人よりこの地を「新地」として開発したい旨、領主である東山妙法院門跡を通じて願い出があり、これを受けて奉行所より移転の「御下命」があったのである。六条村としては、当時の村地がすでに人口増で過密状態であったことと、「警刑吏御用」を勤めるうえでの利便ということを前提として、洛中に近くかつより広い土地を強く希望して、数年に渉って交渉したが、結局前述のように元の地より少し南の同じ妙法院領の柳原荘の地で、広さも変わらず一町歩(約一ヘクタール)で受け入れることとなった。そのかわりに、移転補償料をほぼ2倍の銀1050枚に上積みさせている(これは小判1050両に換算できる額である)。
 しかし、移転後も村の人口は増え続けたため、享保17年(1732)には妙法院に願い出て、その所領地で村の南側の銭座跡(現西之町あたり)の荒れ地約2町歩を農用地として開発し、家屋を建てこれを「銭座跡村」と称し、六条村より約200人が移住した。そして、この後もさらに人口増加は続き、延享元年(1744)には六条村が955人、銭座跡村が417人となり、わずか30年間に1.6倍にもなっている。
 その後、天保14年(1843)には、西側に隣接する他村所有の荒地約1町歩(現小稲荷町あたり)を賃借し開発して、これを「大西組」と称した。この地は、それ以前の文化12年(1815)に既にその一部を借用し、皮張場とその細工用の建屋5戸を建てていたが、天保14年の賃借契約は、いったん農用地契約を先になし、その後すぐに宅地転換の契約に変更し、しかもその年貢・人足料代として賃料18貫文で「建物ノ多少ニ寄ラズ」居住用・作業用・倉庫等自由に建築できるような条件に更改している。(以上『京都の部落史』第4巻および第5巻所収の史料による。)
 しかしこれについては、文化12年の賃借以来30年も経過しており、当該地の開発が進められて多分相当数の建屋がすでに建っており、天保14年の宅地用転換契約はこの事を追認したものであると考えられる。そして賃料18貫文というのは、当時この程度の土地としては破格の賃料であったといえよう。
 このように、六条村が周辺地域を宅地として盛んに開発し、人口の急増とともに拡大していった背景には、村内の産業が活況を呈してきており、そのため、作業場や倉庫・住宅の新増築需要が続いていたことがあげられる。そしてこの産業というのは「皮革商い及び雪踏・下駄・沓・履物表等」の製造、販売、修理であった〔『柳原町史』〕。雪踏は、もともとは武士や富裕な町人層の履物で、特に裏が革張りで鼻緒が鹿革のものなどは高級品であり、履物の中では付加価値の高い商品であった。しかし18世紀頃からしだいに一般の町人層にも広まりはじめ、幕末頃には正月などの「はれの日」の前には誰もが買い求めるようになっていたのである。こうして江戸時代半ば以降、雪踏の需要は拡大の一途をたどっていったといえよう。そして六条村は、当時江戸に次ぐ大消費都市である京都の高級履物市場において、その製造から販売・修理とすべての分野で、シェア−第1位を占めていたのであるから、どれほど盛んであったかは想像できよう。
 こうして皮革商と履物産業は、幕府御用の警刑吏役の「給金」とともに、この村に莫大な現金収入をもたらし続け、その繁栄振りは、前掲『柳原町史』によれば、「安政已来漸次盛ンニシテ、慶応・元治ヨリ明治初年頃ニ至リ其極度トモ云フベキ有様」となった。この時期に繁栄のピークを迎えたのは、幕末から明治維新にかけて、京都が政治の舞台の中心となり、各地より多数の人が集まって、その際「信望高く、世間が慕向する」京都の物産・商品を「先を争う」ように購入したからである〔『都下商工業ノ現況調査書』京都府勧業課編 明治16年〕。当時、幕府をはじめ諸藩の家士、勤王・佐幕の浪士たちが都で消費した金は相当なもので、その経済波及効果についての統計はないが、前掲『柳原町史』の記述はその状況を反映していよう。
 なお、繁栄のピークを迎える幕末・維新のこの頃には、村内の履物関係製造業者の生産システムは、いわゆる「問屋制家内工業」の形態に近いものであったと考えられる。雪踏を例にとれば、裏革、雪踏表、鼻緒等の加工、それらを縫製して仕上げる工程などいくつもの作業工程に分業しなければならないからである。そして、これら各工程を請負う職人を束ねる親方層を中心にして、資本の蓄積を重ねていたと考えられる。
 このような繁栄に支えられて、人口も高い増加を続けていたようである。同時期の六条村の人口を直接示す史料はないが、1870〜71年(明治3〜4)の京都府の戸口調査によれば、被差別部落を除く地域の戸数・人口の増加率が、それぞれ0.9%、1.7%と微増なのに対し、被差別部落のそれは、8.7%、9.7%と依然として高い増加率を示していた。
 さらに明治初年頃には、皮革、履物関係の工場を新たに設立する者も現われ、その中には、時代の流れにいち早く対応して、靴の製造を始めた者もいたのである。そのほか、1875年(明治8)1月、柳原荘村(明治維新後、六条村は銭座跡村、大西組等を併せて本村の柳原荘村を名のることになる)の若林政七が、旧淀城の建物の払い下げを受けたり、1878年、同村の村上林兵衛が、下京区七条通高瀬川西入ル材木町に皮革加工場用地を購入しようとして、地元住民の反対に合ったことなど、この町の人々の活発な経済活動の一面をうかがい知ることができる。
 しかし、このような繁栄も、前掲『柳原町史』の記載によれば、「(明治)13・4年頃ヨリ衰微ノ兆ヲ顕シ、17・8年ニ至リ甚敷 惨状ヲ見ル」ようになる。この原因については、維新後、警刑吏役などの旧幕府御用の仕事の差し止め、斃牛馬処理などの権益の喪失といった経済的打撃がたて続けに訪れたことである。さらにこれに追い打ちをかけるように、明治10年代後半以降、松方デフレ政策(注1)による深刻な不況が襲った。前掲『都下商工業ノ現況調査書』によれば、この時期、1880年(明治13)の京都の主要商品生産指数を100とすれば、1883年までの僅か3年間で、商品によって差はあるものの、70〜40にまで落ち込んでいる。とくに京都の場合は、すでに都が東京へ移って人口が半減したため、周辺部も含めて町全体が、「灯が消えた」ような最悪状態となっていたうえに、「遷都以後四方ノ好尚 漸ク去リテ東京ニ帰向」し、あこがれの的であった京都の物産品に対する「資望日ニ衰ヘ、地方ノ需要隨テ微カ」〔前掲『調査書』〕になり、商工業全般の衰退がすでに明白であった。そこを襲った不況であるから、幕末のピーク時よりみれば、生産・販売の不振はまさに「甚敷 惨状」というべきもので、その影響はいつの世にても同様に、部落内の貧困層において最も深刻であった。
 1886年(明治19)、京都府勧業課が、不況に苦しむ府内各部落の状況調査を行った。その調書〔『旧穢多非人調書』〕の柳原荘村の項によれば、総戸数1,111戸のうち、841戸を雑業が占め、そのうち、「世上1般の不景気に拠り、目下生活に困迫するもの749戸」で、さらにそのうち、「400戸余は僅に所有する処の衣類物品を売却して漸く口を糊するもの」で、「残る349戸余は所有品もなく、もっぱら近隣の救助を受け、或は荘内の慈善者の助力を受け糊口するものにして、動もすれば飢餓に陥らんとする等の状態」であった。この雑業の主なものは、人力車挽き、履物直し、日雇いなどである。いずれも、不況下では、口銭や仕事が少く、収入が不安定なものばかりであった。
 しかし、村内がすべてこのような状態であった訳ではない。前掲『調書』によれば、履物類商75戸を最多として26業種あり、工業も10戸あった。これらの商工業者の中には、困窮していく貧困層のために、私財を投げうって救助し続ける桜田儀兵衛(注2)のような人たちがいた。さらに1871年(明治4)、いわゆる「解放令」を足がかりとして、江戸時代より蓄積してきた資本を元に、1般社会への進出を狙い、その為に新しい事業を起こし、或いは協同して部落の近代化に力を注ぎ、それによって名実ともに部落の解放をなし遂げようと、様々に活動を始める人たちもいた。そのような動きの中心として、後に柳原銀行が設立されるのである。


(注1)松方デフレ政策
 1877年(明治10) 2月、西南戦争の開戦とともに、政府はその*:戦費をまかなうために、当時の国立銀行から1,500万円という大量の銀行券(今日でいう紙幣)を借り入れ、自らも2,700万円の政府紙幣を発行した。この結果、国内に出回る紙幣が1年で40%も増え、激しいインフレーションが起り、物価が高騰して庶民の生活を直撃し、社会不安が高まった。
 そこで、1881年(明治14)10月、大蔵卿に就任した松方正義は、当時全国に153行もあった国立銀行の紙幣発行を停止し、翌年、日本銀行を設立して、これに紙幣発行権を集中し、通貨制度の統1をはかった。そして、インフレの元凶になった各国立銀行紙幣を廃棄しつつ、統1紙幣としての日銀券を新たに発行していったが、その際、通貨の市中流通量を減少させ、物価の下落を目ざすデフレーション政策をとったので、これを「松方デフレ政策」と呼ぶのである。
 この結果、諸物価は急落し、小規模な生産業者と流通業者を直撃した。それは、農村においては零細農家であり、都市においては小資本の商工業者であった。当時の柳原町においても、府税を滞納し、差し押えを受けたりする人々もあったが、この長い不況に耐えて、景気の回復にそなえるだけの資力を持った人々もまた多くいたのである。(松方デフレの内容については「紙幣整理始末」−日本金融史資料 日本銀行調査局編 第16巻P40〜41参照)



(注2)桜田儀兵衛
 1832年〜1893年。誠実・温厚な人柄で、質素・勤勉を旨として家業に励み、幕末〜明治初期頃までには大いに財を成したようである。1873年(明治6) 、柳原荘村戸長に推薦され、以後1889年(明治22)、町村制施行とともに町長となり、1893年に病にたおれるまでの21年間、村政・町政に1身を投げうった。
 この間、道路・下水の改修、小学校の設置等の公共事業の他、困窮者の授産、勧業等町勢の近代化に努めた。しかし、彼の真骨頂は、明治維新後の身分制度廃止に応えて、一般社会と対等に伍するべく、町内の近代化と改善に腐心し、乏しい村・町財政の中で、自らの資産を投げうってまでも、これを遂行しようとしたことである。
 例えば、在任中、度々貧民調査を行って、これを救済し、1879年の大火の折には、被災者に多額の義捐金を配布したり、同年秋の米価高騰に際しては、家財を売って困窮者の救済をはかった。また、1883年、京都市にコレラが大流行した時には、いちはやく消毒等を行い、町内への流行を防いだ。この他、1889年に「 柳原町進取会」 を、翌90年には「貧民授産所」を自費を投じて設立し、町内の福祉、勧業、改善に力を注いだのである。彼の死後、町中の人々がその功績をたたえ、2年後に碑を建て、その建碑式が盛大に行われたという(その大きな石碑は、現在も、崇仁隣保館の前に建っている)。この桜田儀兵衛の思想と行動は、明石民蔵らに受け継がれ、「自主改善運動」の出発点となるものであった。(桜田儀兵衛の事績については、「府庁文書」他 史料-京都の部落史6所収によった)

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2、柳原銀行の設立と町の経済


 1898年(明治31)12月26日、紀伊郡柳原町の明石民蔵ら11名は、合資会社柳原銀行の設立認可を大蔵省に出願し、翌1899年(明治32)6月15日認可された。資本金は22,000円であった。本店舗は、当初より柳原町内に置いていたものと思われるが、その正確な所在地は判明していない。しかし、現本店建物の解体移築にともなって発見された棟札の、「明治40年6月吉祥日 明石民蔵」の文字から、この頃には京都市下京区上之町15番地の、現在は河原町通の拡幅によって交差点内となってしまった河原町塩小路西南角で、今回修復保存された、当時としては漸新な建物で営業を開始した。その後、経営は順調で、預金残高・積立金とも着実に増加していったようであるが、ここで、明石民蔵らが銀行を設立した背景を先に述べておきたいと思う。
 まず、銀行を設立するという発想や行動はどのようなところから生まれてきたのか。当時の政治経済の状況を見てみたい。
 明治10年代後半の松方デフレ政策から、1890年(明治23)の日本最初といわれる近代的な経済恐慌にいたる間、国内は不況の年を連ねていたが、日清戦争(1894年〜95年=明治27〜28)とともに経済はようやく活況を呈するようになる。そして戦争後、中国からの多額の賠償金によって経済は飛躍的な発展をみせ、各地で工場の設立が急増する。たとえば、明治10年代には年平均100件程度の設立数であったものが、戦争前の1893年(明治26)には225件、戦争時の1895年(明治28)には279件、翌年には351件、さらに翌年には387件となっている(農商務省商工局『全国工場統計報告』より算出、ただし職工10人以上の工場)。
 これと同時に、銀行の設立ブームも起こるのである。それだけの資金需要があったからであるが、それにしても、1896年(明治29)から1900年(明治33)の5年間に、実に1692行(本店のみ)もの銀行が設立されたのである(大蔵省銀行局『銀行総覧』「各種銀行数・資本金増減表」より集計)。まさに全国「1邑アルトコロ必ズ銀行アリ」という濫設ぶりであった。いわば、「村」と名が付くところ、その役場の隣にはかならず銀行の看板を掲げた家が見られるといった情景を呈したといえる。
 そして、このようなブームに明石らは触発され、いわば流行に乗ったのである。しかし、彼等の本当の意図は、社会経済全体の発展に対応して、柳原町(1889年から紀伊郡柳原町になった)の教育等の町基盤整備を支援し、起業者や既事業者の育成・振興をはかり、町全体の実力を高めて、そのことによって世間の偏見や差別意識を変えていくこと、つまり明石のことばをもって言えば、「世の進運に遅れず、外は舊来の陋習を破り」(『明治之光』第2巻3号)、もって部落の解放をなし遂げようとの強いおもいと、その実現にむけての行動であった。すなわち、明治維新後も部落民に対して、「世人皆……脳裏に尚ほ徳川時代の残夢を存するを以て、強て新名称を附し、吾人同志の前身を標榜し、或は侮辱し、或は擯折」(前掲『明治之光』)するようなことが続いていたし、その上、経済的に「衰微ノ兆ヲ顕シ」、町内の貧困層が増大し、彼らの生活が「甚敷惨状」を見せ、ために「学術・技芸・風俗・言語の改良遅々として世の進運に伴は」ないことに対する強い危機感があったのである。部落に独自の金融機関を設立なさしめたのは、このように、自らの資本と力で町内の産業を発展させ、経済力を復活させ、それをもとに町勢の発展をはかり、維新後も続く差別を打破させたいとの明石民蔵らの強い意志と情熱が大きくはたらいていたのである。
 しかし何よりも、銀行経営が当時事業として成立し得る程度の経済力が、この柳原町にはあったということも見落せない事実である。銀行に出資や預金するものがあり、同時に、事業の設立や運転のための資金の融資を必要とするものがなければ、銀行業は成り立たない。
 ここで、出資者(預金者)と借り手の双方について少し見てみよう。
 出資者については、当初11名で、明石民蔵、桜田儀兵衛、明石周次郎、見村喜三郎らの名が見える(『日出新聞』1899年、『京都の部落史』6所収)。名前のわかっている者について、1907年(明治40)の所得額を見ると、桜田儀兵衛=年収1、500円、明石周次郎=同800円などとなっている(『京都府六郡資産家1覧表』1910年)。さらに同表によれば、柳原町内に年収4,000円のが2人あり、これを最高として、年収400円以上の高額所得者が63名もあがっている。ちなみに同年度の京都府公務員の平均年収は195円、巡査では同169円であった(『京都府統計書』より算出)。以上のことからすれば、その後数度にわたる増資に応じたり、預金をすることの出来る者が相当数あったといえる。
 次に資金の借り手であるが、運転資金や開業資金を必要とする事業者がどれぐらいあったか見てみよう。
 まず、工場経営等製造業者では、表1を見ると職工数5人以上の工場は、1909年(明治42)末日現在で20あり、動力を使用しているのは2カ所であった。そして、柳原銀行設立までの開業分は15工場あり、それ以後は5工場である。また、日清戦争直後に、K、L、Mの製革関係の3工場が相次いで設立されている。さらに、日露戦争中および後に、P、Q、Sの履物、皮革、靴と町内の既存分野の他、R、Tのような繊維、機械関係などの新しい分野の工場が設立されている。この2つの時期に集中してみられるのは、戦争による好景気と、それに伴う会社・工場の設立ブームに刺激されたものであろう。
 柳原銀行が、表1のような工場とどの程度の取引をしていたかは、内部資料を発見出来ず、詳しくわからない。しかし、頭取明石民蔵が、いわゆる 「部落自主改善運動」で活躍した雑誌『明治之光』の購読者、寄附者の名簿欄には、表1の工場の経営者のうち11人が顔を出している。さらにその中には、柳原銀行の出資者として明らかなものが3名ある。柳原銀行が、これら町内の工場経営者との取引や、富裕層の出資をもとに、さらに、被雇用者層にまで預金者を拡大していったことは十分に考えられる。また、それをもとに融資を受けて、表2のように多数市内に進出していった商店経営等販売業者もあった。
 次に、経営状況に目を転じてみよう。
 設立後、資本金を1908年(明治41)には、24,200円に、1912年(大正元)11月には、35,100円に増資している。1909年(明治42)には、同じ柳原町内に支店を増設している(但し3年で廃止)。〔以上『銀行通信録』ー東京銀行集会所編および前掲『銀行総覧』より〕。この間、預金も順調に増し、1903年(明治36)には、78,000円に、1911年(明治44)には、254,300円としている。積立金も同様に、それぞれ1,7164円、1,850円と増加している。さらに、配当金は1割から1割2分を維持しており(『日本全国諸会社役員録』)、この間、2回の金融恐慌があり、1900年(明治33)から1911年までの12年間に、実に698行もの銀行が消滅していることから考えれば、堅実にして順調な経営ぶりであったといえよう(詳細は筆者作成のP 付表「柳原銀行ならびに山城銀行の営業実績」参照)。
 しかしこの時期、明治期の終り頃から、業績にかげりが出始めるのである。 即ち、預金残高は1911年にピークを示し、その後急激に減少に転じ、1916年(大正4)上期まで9万円も減少している。この間、国内的に長い不況期にあったとはいえ、同期間、京都銀行集会所加盟銀行の預金残高が、一貫して増加している(表2参照)ことからみれば、明らかな業績不振といわざるを得ない。
 この原因としては、前述のように、2度の金融恐慌による弱小銀行の信用力の低下と、不況による預金残高の相対的停滞という全国的な傾向が、この町にもいよいよ例外なく押し寄せていたこともあるが、根本的には、柳原銀行内部に起因するより大きな信用力の低下であろう。
 それは明治期の業績拡大期に内包されつつあったと考えられる。
 1903年から1911年まで、預金残高が3.26倍と急膨張している(グラフ1)が、これに合わせて貸出も拡大していったであろう。明治期の貸出残高を示す史料は見つかっていないが、1913年(大正3)12月末には、預金218,312円に対し、貸出206,266円となっており、預貸率は94.5%と高率で、貸出が1部固定化していたと疑われる。同年度の京都銀行集会所加盟銀行の預貸率が68.4%で、当時の適正水準は70%であるとされていた。つまり、この水準を越えることは、それだけ無謀な貸付を行っていたと考えられる。
 その結果として貸付が一部不良債権化していくのである。
 では明治40年代から大正初期にかけての融資先の状況を見てみよう。
 この当時の大口融資先と考えられるのは、表3の3社である。いずれも、柳原銀行頭取の明石民蔵が、取締役または監査役に就任している。
 京都皮革株式会社は、もともとは表1にあるQ製革場が母体になったもので、前田治之助の個人経営であったのを株式会社組織に変更し、他の大資本の皮革会社に伍して、業容拡大をねらったものであろう。しかし日露戦争後、国内の皮革類生産は半分以下に落ち込み、以後、第1次世界大戦までずっと横バイ状態が続いており、創業当初から経営は苦しかったものと思われる。1912年(明治45)1月28日付の『日出新聞』に、京都皮革の近況と利益処分案の記事が載っていて、当期未処分利益2,800余円のうち1,420円を配当に予定しているが、同年2月1日付の記事では、それを500円に減額している。これは、利益処分案に不備あるいは疑義があったからであろう。このことについては、当時のデーターバンクの資料でも指摘されている(『全国銀行会社統計要覧』明治43・44年、東京興信所)。稲荷調帯株式会社についても、その営業報告は「信用出来無い」と指摘されている(前掲『全国銀行会社統計要覧』)。恐らく、この2社に対する運転資金の融資が、不良債権になっていたと考えられるのである。
 次に、大正皮革調帯株式会社であるが、京都皮革株式会社と日本調帯株式会社とが、「何れも解散の上、両会社の重なる株主其他の有志発起人となり」(『日出新聞』1912年10月13日)、新たに設立されたものであった(日本調帯という会社は日出新聞の記事の以外になく、役員名や会社消滅の時期から見て稲荷調帯のまちがいであろうー筆者)。大正皮革の設立によって新たな資本を導入し、それによって、京都皮革、稲荷調帯両社の経営危機を乗り切ろうとしたものと思われる。
 しかし、この会社も、皮革需要の落ち込みに加え「資本金の払い込み不足」、「工場の設備不足」、「運転資金の欠乏」等で、第1期決算で早くも「6万円」の欠損を出し〔『日出新聞』1913年9月13日〕、さらに、重役が次々と辞任・交代したり、手形を乱発したりの乱脈ぶりであった。そして、設立後わずか3年の1915年(大正4)11月20日の株主総会で、会社清算のうえ解散を決議しているが、結局清算出来ず、1917年(大正6)1月16日破産した。
 この時点で同社に対して柳原銀行は、「2万円の債権を有し」ていたが、それ以前大正3年6月にすでに、「大正皮革が前取締役尾崎潔次宛に振り出した額面1万円の手形が、不渡りとなった」〔『大阪朝日新聞』1913年6月10日〕。この時同じく、尾崎潔次が取締役支店長をしていた別の銀行でも、同社への融資が焦げ付き、そのため同人は責任を問われ、背任で告発されているが、この銀行も柳原銀行と同様に大正皮革への融資の破綻によって、1時経営危機に陥るのである〔『田中源太郎翁自伝』昭和9年〕。
 このような事態に対して、柳原銀行では同社への債権について全額償却をし、大正3年の上・下期にわたって欠損を出し、5分減配を行った。同時に、明石民蔵は責任を取って頭取を辞任している。この結果、貸出高を約2万円減じ、預貸率を下げていることは、前記の記事に符号している。
 以上のように、柳原銀行は、明治40年代まで順調に業績を伸ばして来たが、皮革関係企業への大口融資が焦げつき、深いきずを負ったと言えよう。この背景としては、大蔵省が、1901年と1911年に、新設銀行の資本金を大幅に引き上げたことや、既設小銀行について、合併・統合の奨励を強めたために経営陣が業容拡大を急いだとも考えられる。
 さらに、明石民蔵らの経営行動には、いわゆる部落改善運動の機関誌であった『明治之光』の社説や投稿に見られるように、「部落内の商工業を勃興せし」め、「大に新事業を起し或は…一般社会に店舗を移し」、「己れの財力を増し部落の貧窮を救済せん」との熱気があったことも大きい。だから、リスクの大きい新規事業に、あえて積極的融資を行ったと考えられる。しかし、部落内に設立された銀行として、預金拡大に限りがあったこと、貸出先も、当部落内を中心として伸び悩み業種が多かったこと、また、融資時のチェック機能の不備なども、経営悪化の根底にあったと考えられる。つまり銀行の経営陣と、大口融資先の経営陣が重複していたりして、融資審査や担保設定等がおろそかになっていたことは十分想像できる。

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3、柳原銀行から山城銀行へ


 大正皮革問題で傷を負った柳原銀行も、第1次世界大戦勃発による好景気の中で、当部落特産の履物需要の回復などによる、主要取引業種の好調に支えられて、1918年(大正7)より預金も増加に転じた。この好景気は、戦争終了後、1920年9月まで持続した。この間、貿易収支が初めて出超に転じ、新興企業が次々に設立されるなど、日本経済は大きな発展を遂げた しかし、同時に物価の急上昇を招き、その影響は、被差別部落の貧困層などの生活を直撃し、1918年には米騒動が全国的に起こった。その嵐は、この東七条町(この年の4月より京都市下京区に編入され東七条町となったにも吹き荒れた。この事件は、町内の自主改善運動家たちに、無力感と危機感を与えた。
 この事件を契機として、当町内だけでの営業活動に限界を感じ、業容の拡大をねらっていた出資者や経営陣は、1920年、「時勢の進運に伴ひ資金増加の必要に迫り本年に入り出資社員の増加」(『大阪銀行通信録』第276号P85)もあり、資本金を1挙に50,000円から162,500円に増資し、名称を『株式会社山城銀行』とし、下京区東七条上之町の現本店を七条支店となし、新本店を下京区四条通西洞院西入ル傘鉾町に移転する組織変更を行った(前掲『銀行総覧』)。新役員は、頭取池田長康、取締役内藤孝三郎、同石原泰次郎、同若林嘉七、監査役大瀧新之助、同吉岡小二郎の6名を出資社員中より選出した(前掲『大阪銀行通信録』、『銀行総覧』より。なお、若林嘉七、吉岡小二郎を除くあとの4名は当部落外の政治家や企業家であった)。  この組織変更については、約2年の年月を要しており、出資者や経営陣の確保に時日を要したこともあるが、自主改善運動派と融和運動派の路線を巡る関係者の確執が1つの原因と考えられる。いうまでもなく前者の中心人物は明石民蔵であり、後者の中心になっていったのは、若林嘉七であった。それゆえ、明石民蔵の死の2か月後、喪明けに定款変更の株主総会と登記を行ったことは、ドラマチックでさえあり、明石の影響力は衰えていたとはいえ、やはりその存在感は大きかったのであろう。
 さて、この若林嘉7は、前掲『明治之光』の購読者であり同人でもあったが、後に『水平社』に対抗して政官財界肝入りで結成された『帝国同仁会』の会員となり、その人脈を生かし、東京や京都の政財法曹界より経営陣を迎えたのである。また、これらの人々を通じて広く株主を募るとともに預金も獲得し、さらにその紹介により、他の金融機関大口預金を導入して資金量を飛躍的に高めることができたようである。こうして、1年半後の1922年(大正11)には経営も再び軌道に乗ったようである。  この間、1921年(大正10)には、乙訓郡向日町に乙訓支店を設置している。これは、この方面の資産家等に多くの株主や預金者を得ていたからであろう。そして、1923年(同12)には、七条油小路に七条支店をを設置し、旧本店の七条支店は塩小路支店に変更した。これについては、この方面に町内の商工業者が進出していたり、関係者の取り引き企業などが比較的に多くあったからであろう。 また、資本金は、1922年に275,000円に、1924年には320,000円に増資している。さらにこの年には、南桑田郡亀岡町にあった株式会社桑船銀行を園部銀行より買収し系列化した。これについては、常務取締役石原泰次郎の銀行人脈を活かして、府中北部への進出を目論んだものと考えられるが、経営的には時宜に適ったものであったどうか疑問でる。  こうして表2のように業容は一気に拡大したが、不運にも1922年12月から始まった恐慌と、翌年9月1日の関東大震災後の「震災恐慌」とその後に長く続く不況下で、取引先の業績も芳しくなく、貸付金は固定化していったようである(『昭和2年休業及休業同様銀行状況調』大蔵省、1928年4月)。融資先は、役員の関係会社、大口出資者の関係会社が、他の休業銀行と同様多く、大幅な担保不足にあったものと思われる(『休業銀行の整理について』銀行通信録第512号、1928年9月)。
 頭取や役員の多くを部落外の資産家や有力者に求めて業容の拡大をはかったが、その経営状態は、かねてより「兎角ノ風評アリシ」(『日銀京都支店報告』1927年3月)ほどに危険な状態になっており、1927年(昭和2)3月15日、東京渡辺銀行に端を発した取付け騒ぎが飛火し、同19日より塩小路支店にて取り付けにあい、同22日休業した(前掲『日銀京都支店報告』)。この時、預金約20万円が引き出されたようである。その後、営業を再開することができないまま、同年9月26日、破産宣告を受けた。休業時預金残高1,048,933円、口座数1,583、株主数200名であった(以上の数値は、『昭和2年3月15日以後休業銀行調』日本金融史資料昭和編第25巻所収、および『第52次銀行局年報』大蔵省1928年より)。預金残高はピーク時より約50万円減少していた。
 この後の銀行整理については、大蔵省の調査では、「預金通帳の買収、担保不動産の売却により、小口預金の払い戻しをすすめ」、その後に「他の銀行に合同する見込み」であった(『休業銀行の整理について』大蔵省銀行局昭和3年3月)が、この後、旧本店建物を含む資産は破産管財人によって全て売却されたが、債権の回収ははかどらず、結局約2〜3割程度の配当で清算されたものと思われる。また、「他の銀行への合同」については、預金あるいは資産の1部を引き継いだ銀行は想定できるものの、史料上は確認できていない。
 1899年(明治32)設立以後、29年間という存続期間は、当時の多数の同規模の銀行と比較しても、長い方であった。しかも柳原町の経済活動の中核として、明石民蔵をはじめ被差別部落民自らの手で経営され、この間、町内の人々の事業経営や事業設立・市内進出などに、また町の公共事業への融資や町債の引き受け、町内寺院の修理資金貸付け等、多大の貢献をしたことは、近代の被差別部落史上、特筆されるべきことである。また、京都市登録文化財として修復保存された旧本店建物の輝きに、彼等の心意気と希望を感じることができよう。明石たちがめざした「差別なき世の実現」は、我々に託された宿題である。

(本稿は1991年発刊の『柳原銀行とその時代』の中の「柳原銀行史」の 論稿に、その後に発見された史料などを加え一部書き改めたものである)