〜自主的改善運動家としての明石民蔵〜



 日露戦争(〜1905)後、各地で講和反対運動が起こるなど社会不満が高まる中、第二次桂内閣は社会政策の実施を施政方針として掲げ、地方行政を通してその具体化を図ろうとした。はじめて内務省の目が部落に向けられ、内務省に属する警察組織による部落改善事業がこうして始まる。

 1907年(明治40)七条警察署長塩小路分所長に着任した吉村盈は、改善のための組織をつくろうと、自ら会則と規約の案文を起草し、柳原町長・小学校長に働き掛けた。これが柳原町矯風会である。発会式には府知事や紀伊郡長が出席し、発会当初から助産事業のため人力車20両、ミシン2台を買い入れるなど、その活動はかつてない華々しいものだった。しかし、従来活動していた住民の自主的な進取会を当初から無視し、次第に官僚らの地方改良運動徹底の上位下達組織としての色合いを濃くしていった。

 部落の生活実態を顧みず、いたずらに矯正矯風だけを奨励する改善政策に反発が起こるのは必定だった。1912年(大正1)内務省の主催で開催された「細民部落改善協議会」では、全国各地での改善運動の報告が大勢を占めたが、その多くが改善政策に協力的でない部落の人々を一方的に問題とするものだった。しかし同協議会における明石民蔵の発言はこれとは異なっていた。「細民部落の執業」を卑しいものと見なす部落外の見方が存在する以上、その考え方を放置して部落側だけに改善を求めても無意味だと指摘した。また部落内の通弊を認める一方で、部落外の人々の「誠意の欠如せる点」として「憲法の精神を重んぜさる小官吏の悪弊」「細民部落を一概に蔑視し自己の分限を没却する弊」など8項目を具体的に述べるなど、早くから自主的改善運動に取り組んできた明石の面目躍如であった。

 「細民部落改善協議会」には、同じく自主的改善運動に取組み、機関紙『明治の光』を発行するなど全国規模の展開を図るなどの点で明石に先んじていた大和同志会の小川幸三郎が、数少ない部落側から参加者として発言していた。この協議会を期に、明石と小川は知り合い交流を深めていく。明石らは1913年(大正2)柳原町同志会を結成し、1916年(大正5)には柳原小学校で、全国の部落に人々を結集した関西同志懇談会を開催する。これまで各地で自主的改善運動を進めてきた人々がはじめて連合し、部落民内に従来から綿々と息づく自主的な改善運動があることを対外的に示した。

 1913年『明治の光』に掲載された「京都府同志会の組織を企図し、府下同憂の同志に檄を飛ばす」という檄文には、「普く同志の賛成を得て一致団結の力に依り、内に学術技芸の研鑽に勉め、世の進運に遅れず、外は旧来の陋習を説破し、迷夢を覚醒し、大いに人材を輩出を図り」との一節がある。事実、この檄文の執筆者であるの明石が取り組んだ自主的改善運動や教育事業の中から、全国水平社創立大会で綱領を読み上げた桜田規矩三をはじめ、次代を担う人材がここ柳原(東七条)から生まれてくるのである。


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