2 明治期の拡大した『柳原町』



 六条村、銭座跡村、大西組、水車小屋(非人小屋)、そして柳原庄全体を支配していたと考えられる本郷の5つで構成された、この柳原庄は妙法院の荘園であったが、明治維新後京都府の管轄するところとなった。

 明治に入ってから、柳原庄の景観を一変した最初の大事件は、明治9年(1876)の鉄道開通(大阪〜京都間)だった。柳原庄のすぐ西側に、忽然と七条停車場(京都駅)が出現した。そればかりでなく、明治11年(1878)には京都〜大津間を結ぶ延長工事が行われることになった。これによって線路は柳原庄の中を貫いて通ることになった。この結果、田畑が買収され、それとともに住居にも立ち退きを命ぜられるところが出てきた。この時、柳原庄から府知事宛てに「嘆願書」が提出されている。嘆願書には、立ち退こうにも柳原庄内には「屋敷の外一切宅地」がなく、よその土地に住居を求め移り住もうにも「下賤の職業致居り候者に付、万事差支へ少なからざるのみならず、何れの地を相望み候ても若干の高価申立て」てくるとの言葉があり、住居を求めるにも差別のため不利益をこうむっていることを述べている。

 鉄道建設による移転問題で、奮闘したのが明治維新後、柳原庄の連合戸長となっていた桜田儀兵衛だった。明治22年の町村制の施行によって「柳原町」が成立した際、彼は初代町長に就任している。この時、ほとんどの町村はいくつかの村が合併することによって成立したが、柳原町は柳原庄がそのまま単独で町になることとなった。合併を検討するため明治20年に作成された「町村制施行準備取調概表」によれば柳原庄の戸数は1011戸、合併前としては京都府下最大級の集落であった。

 この時すでに4000人を越えていた柳原町の人口は、なおも増え続けた。これには自然増加とともに、外からの流入人口が原因した。京都駅に近いという地理的状況もあって、昭和に入ると崇仁(柳原町)の人口は1万人にせまることとなった。


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