柳原銀行記念資料館第4回特別展の開催にあたって

 ようこそ柳原銀行記念資料館(崇仁隣保館資料室)にお越しくださいました。

 只今、当館では第4回特別展として、『運河流るる柳原〜知られざる高瀬川と崇仁〜』を開催しています。

 今年は、崇仁まちづくり推進委員会と京都市が練り上げてきた、「住民参加」のまちづくりがいよいよ動きだし、崇仁のまちを流れる高瀬川も流路を変更し、ゴミの浮く廃棄の川から恵みの川へと変身を遂げようとしています。柳原銀行が崇仁の地に設立されてちょうど100年目にもあたるこの期に、柳原(崇仁)と高瀬川の歴史を振り返り、人と川の本来の関係、差別と環境の問題を考える一助になればと、今回の特別展を企画しました。

 高瀬川は六条村(崇仁の前身)が六条河原に存在した頃から共にありました。1648年(慶安1)以来、この地は大きく開発され、七条通北から西に延びていた高瀬川とお土居は、枳穀邸の工事により東へと付け替えられました。この付け替えにより、広さ東西約300メートルにわたる掘割は、お土居の内側つまり洛中に位置することとなり、「内浜」と呼ばれるようになりました。この付け替えの後、1714年(正徳4)に六条村が六条河原から「内浜」の南に位置する現在の地に移転します。「内浜」の周辺には多くの材木商、薪炭商、運漕屋やその倉庫が建ち並び、陸の竹田街道と接続し、1728年(享保13)「七条米会所」ができて南北の物資流通の大動脈として存在しました。

 近代にいたり、「七条内浜」に株式取引所ができて京都の経済の一大拠点として最盛期を迎えますが、「七条ステーション」が完成し鉄道開通により物資と人の輸送は確実に奪われ、高瀬川の運河としての機能は衰退して、「内浜」は1921年(大正1)頃には埋め立てられました。その後「七条内浜」といえば、蔑視の言葉として本来とは全く異なった使われ方をするようになりました。そして高瀬川はその後も幾度も流路の変更はありましたが、二度とかつての活気ある姿には戻りませんでした。

 しかし1997年(平成9)から進められた地元崇仁の住民主導のまちづくりにより、全く新しい高瀬川が誕生しようとしています。知られるべきは運河流るる柳原(崇仁)、栄枯衰退を繰り返しながらも、なお運命の扉を未来に向けて開こうとする崇仁の人々の姿であり、そのことに思いをはせていただければ幸いです。

 なお、当特別展では、展示資料や図録中に「穢多」という賎称語が記載されております。原資料をそのまま紹介していますのは、これらの学術的資料を通して、崇仁地区について学習し、同和問題を正しく理解していただくことを目的としています。ご来館の皆様にはその趣旨をご理解いただきますとともに、当図録の扱いには十分ご配慮いただきますようお願い申しあげます。

 最後に、本展を開催するに当たり、資料を提供いただいた石田孝喜さんをはじめとする皆様、ご支援、ご協力をいただいた関係各位に、心から御礼を申し上げます。

1999年(平成11)3月

京     都     市

柳原銀行記念資料館運営協議会

崇仁まちづくり推進委員会



「運河流るる柳原」目次へ
インターネット特別展 目次へ