〜「衰退」に立ち向かった柳原銀行〜

2.柳原町史(崇仁小学校蔵)

1887年(明治20)

 『柳原町史』は、旧山城国愛宕郡柳原荘の戸長役場が、京都府庁の依頼で1887年(明治20)に作成したもの。刑警吏役と皮革業など、前身である江戸時代の柳原荘村の沿革に関して詳しく述べられている。

 中でも、生業の条に「安政已来漸次隆盛ノ域ニ進ミ慶應ヨリ明治六・七年迄ハ其極度トモ云フヘキ有様ナルモ、同十三・四年頃ヨリ衰微ノ兆ヲ顕シ、十七・八年ニ至リ甚敷惨状ヲ見ル。」とあり、明治初頭の松方デフレ期に柳原町の産業が衰退する様子がうかがえる。








3.柳原銀行設立認可通達(京都府立総合資料館蔵)

1899年(明治32)

 1898年(明治31)明石民蔵ら11人が合資会社柳原銀行設立認可を大蔵省に出願したのに対し、翌1899年(明治32)6月15日、大蔵省より認可された。資本金22,000円(現在の4億4000万円ほど)、頭取・明石民蔵、営業担当・桜田儀兵衛、明石周次郎、見村喜三郎。

 柳原銀行は当初、設立者を中心に町内の資産家の資金をもとに営業を始めたが、次第に多くの人々の預金を得て、明治40年代頃には25万円(現在の約50億円)ほどの資金量があった。そして、これを同じ町内の事業者や起業をめざす人に、運転資金・事業資金として融資していた。この融資をもとに、多くの人々が町内での事業にとどまらず、より広い商圏を求めて京都市中へと進出していったのである。

 柳原銀行の設立は、町内の産業の育成・振興をはかり、そうすることで、明石の言葉をもって言えば「世の進運に遅れず、外は舊来の陋習を破り、」いわば部落の解放を成し遂げようとの強い意図が根底にあった。















4.柳原町議会決議書(京都市蔵)

1902年(明治35)

 柳原町は、江戸時代の柳原荘村が明治になって柳原荘となり、1889年(明治22)の町村制の施行にともない柳原町となった。

 柳原銀行も柳原町の中にあり、明石民蔵自身も1893年(明治26)から2年間町長を務めた。

 これは柳原小学校の敷地を担保に柳原銀行より3,700円(現在の7,400万円ほど)の借入を、柳原町議会が決めたもの。









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