〜自主的改善運動家としての明石民蔵〜


12.柳原町矯風会之印

(崇仁小学校蔵)

1908年(明治41)

 柳原矯風会とは、1908年(明治41)7月15日、七条警察署塩小路分署長・吉村の発案で作られたもので、国家主義的同情融和の色彩が濃い団体であった。吉村は当時の唐瀧庄三郎町長や玉置柳原小学校長に相談を持ちかけ、有志者から400円(現在の約800万円)を基本金として集め、会員からは毎月10銭(現在の約2,000円)の会費を集め、10年間これを貯蓄させるという計画であった。

 この時代、柳原町は矯風会によって国家主義的な融和運動一色に染められようとしていた。しかし、上からの組織作りはうまくいくわけもなく、預貯金額も伸びず、数年を経て活動停止となった。











13.細民部落大会報告書(崇仁小学校蔵)

1912年(大正1)

 内務省が1912年(大正1)11月に開催した「細民部落改善協議会」には全国から行政・教育・宗教関係者など約150名が出席した。協議内容も、教育・職業・衛生・納税など12項目におよび、改善に携わる篤志家、行政当局者などが実際の部落での活動を通して得られた体験をそれぞれ報告するものであった。しかしその多くは、改善政策に協力的でない部落民の態度を一方的に問題にするものだった。

 京都府からの4人の出席者の1人として出席した明石民蔵は、その中で部落の悪弊を指摘する意見を批判して、むしろ「他の階級の誠意の欠如」が融和への障害となっていることを延べ、部落側に改善を求める発想の限界を指摘した。

 しかしこの明石の発言は協議会速記録からは抹消され、明石自身が私家版としてまとめたこの報告書によって、初めて明らかとなった。なお、報告書は、奈良から参加した小川幸三郎の発言が座長によって制止されたことも書き留めている。









14.全国水平社創立大会へ

(崇仁小学校蔵)

1922年(大正11)

 全国でも2枚しか現存しないこのビラが、なぜ崇仁小学校にあるのかは謎とされてきたが、崇仁小学校に入手された経過には2つの場合が考えられる。1つは、1922年(大正11)2月、大阪中之島中央公会堂で開催された大日本同胞差別撤廃大会に西光万吉らが撒いたときであり、もう1つは全国水平社創立大会の前日に、水平社同人が水平社創立の宣伝のためにビラを京都市内各部落に撒いたときであり、そのどちらかと考えられる。1つは、1922年(大正11)2月、大阪中之島中央公会堂で開催された大日本同胞差別撤廃大会に西光万吉らが撒いたときであり、もう1つは全国水平社創立大会の前日に、水平社同人が水平社創立の宣伝のためにビラを京都市内各部落に撒いたときであり、そのどちらかと考えられる。

 明石民蔵らの自主的改善運動が水平社の思想的な準備をするものであったにしろ、両者の間に具体的な接点はなかった。

 しかし明石民蔵が「田中親友夜学校教育補助頼母子講」の整理に入り、全財産を失った頃「崇仁青年団」が結成されている。この崇仁青年団は後に水平社の活動家を多く輩出していた。全国水平社の創立大会で、その綱領を朗読した桜田規矩三は好例である。

 また1920年(大正9)6月1日に、七条水平社結成に影響を与えた吉崎民之助が正覚寺で社会改善講演会を開いたのは、明石民蔵の亡くなるわずか5日前である。明石民蔵の死の枕に水平社の足音は確かに響いていた。











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