〜「衰退」に立ち向かった柳原銀行〜



 未だ税収システムの整わない明治政府は、西南戦争の開戦(1877年、明治10年)とともに戦費をまかなうために、当時の国立銀行から大量の銀行券を借入れ、自らも多額の政府紙幣を発行した。これにより国内に出回る紙幣量は1年で40%も増加、激しいインフレーションが起こり、物価高騰から深刻な社会不安が生じた。

 このため、1881年(明治14年)、大蔵卿(現代の大蔵大臣)に就任した松方正義は、未整備な金融システムの近代化を図り、流通する紙幣量を減らす政策をとった。すなわち、当時全国に153行もあった国立銀行の紙幣発行を停止し、1882年(明治15年)日本銀行を設立して紙幣発行権を集中、各国立銀行紙幣を廃棄しつつ、日銀券をもって通貨制度を統一を図ったのである。これにより通貨の流通量を国家のコントロール下においた彼は、紙幣の流通量を減少させることで、物価の下落をめざした。彼のこれら一連の政策を「松方デフレ政策」と呼ぶ。

 この結果、物価は急落し、零細農家や小規模な商工業者らに大きな打撃を与えた。彼等は江戸時代、京都の都市経済の隆盛を支えた近世的産業の担い手でもあった。京都においては、たとえば西陣織や丹後ちりめん、染め物や陶磁器など売上げが半減、産業によっては6分の1にまで激減するものもあった。部落の産業についてもこの例外ではなく、江戸時代中期以降発展を続けていた履物業がここで壊滅的な打撃を受け、これが生活の悪化と窮乏をもたらした。「柳原町史」に「安政已来漸次隆盛ノ域ニ進ミ慶應ヨリ明治六・七年迄ハ其極度トモ云フヘキ有様ナルモ、同十三・四年頃ヨリ衰微ノ兆ヲ顕シ、十七・八年ニ至リ甚敷惨状ヲ見ル。」とあるのは、この時期の部落の状況に触れた貴重な史料である。

 この松方政策にはじまるデフレ期は、同時に日本の産業の近代化にむけての再編期でもあった。衰退する近世の産業に対して、大きな資本と西洋の技術を導入した近代的産業が興隆してくる。差別という障壁によって、こうした世の動きから取り残されようとする部落の中で、明石民蔵らは銀行という近代的な金融システムを導入し、部落の産業の近代化を図ろうとした。柳原銀行に引き続き、皮革業を「京都皮革」「大正皮革」といった株式会社の設立によって展開していこうとした、彼等の取組がそれである。「世の進運に遅れず、外は舊来の陋習を破り」という彼の言葉は、世の近代化の動きをにらんだ、このような意図の表れと見ることができよう。「銀行」は単に富の象徴なのではなく、「差別」と同時に「近代化」というはげしい時代の流れとも格闘した、彼等の取組の証明である。


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