〜六条村から柳原町,そしてこれからの崇仁〜





柳原銀行記念資料館第2回特別展の開催にあたって

 ようこそ,柳原銀行記念資料館(崇仁隣保館資料室)へお越しくださいました。

 只今,当館では第2回特別展として,『崇仁の軌跡をたどって』〜六条村から柳原町,そしてこれからの崇仁〜を開催しています。

 この特別展は,当館が地域資料館として定着していくために,柳原銀行を生んだここ崇仁についてもっと知っていただこうというねらいで企画しました。

 ここでは,崇仁の軌跡をたどることをテーマに,六条村の成立,移転,定着の様子と明治期から大正期にかけてのまちの姿を古地図,古文書,測量図を通して振り返るとともに,環境改善事業が取り組まれてきた現在の姿と,住民が主役となって進められているこれからのまちづくりについて,関係資料等で紹介する構成となっています。

 「諸式留帳」によれば,寛文3(1663)年に河原町松原を上った場所や平等院因幡薬師堂東方の地(烏丸五条北東付近)にいた河原者が,市街地の発展により,五条橋南の鴨川と高瀬川に挟まれた場所に建家を許され移住したと記されており,『六条村』の成り立ちを知ることができます。

 その後,六条村は,市街地の発展や火災等により移転を命じられますが,江戸時代の中後期頃(1800年代初期)に替地を求め開墾したり,銭座跡地へ拡大する(銭座村)などして定着し,今日に近い範囲が形成されていきました。

 明治期から大正期になると,『柳原町』として人口が増え拡張していきますが,昭和初期から戦後にかけての時代の流れの中で,狭隘な住宅が密集していきました。

 そして,『崇仁』となった現在,昭和30年代から取り組まれた改良事業の延長に,住民が主役となる新たなまちづくり計画が始動しています。

 注目すべきことは,崇仁の先人達が,様々な時代の流れに翻弄されながらも,意欲的に新天地でのまちづくりに自ら取り組んでいった様子が分かることです。そして,現在,そのたくましい精神が,新たなまちづくりとして生かされようとしていることにお気付きいただければ幸いです。

 なお,当特別展では,資料や説明文中に「穢多」という賤称語が記載されております。原資料のまま紹介しておりますのは,これらの学術的資料を通して,崇仁地区について学習し,同和問題を正しく理解していただくことを目的としてのことです。ご来館の皆様にはその趣旨をご理解いただきますようお願い申し上げます。

 最後に,本展を開催するに当たり,資料を提供いただいた皆様をはじめ,ご支援,ご協力をいただいた関係各位に,心から御礼を申し上げます。

平成10年(1998)3月

京     都     市

柳原銀行記念資料館運営協議会


*「諸式留帳」について
六条村北町年寄嘉兵が,寛永11(1634)年から寛延2(1749)年にかけて記したもので,六条村を含めこの時代の京都の様子が詳しく記載されている。特に,司法・警察などの行刑制度に詳しい。

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