1 古地図を通して見る『六条村』の成立と変遷



 「部落」という言葉が、ある地域への蔑視・差別感を表現するために用いられだしたのは比較的新しく、近代に入ってから、それもおそらく1920年代以降のことだと思われる。これは、それ以前に用いられてきた「えた」「新平民」などの身分的蔑称から転換したものと考えると、それ以後の差別観が形成される上で決定的であった。「部落」を、地理的・空間的に固定されたものとするイメージは近代以降に成立したものであり、それ以前へこのイメージを投影することは歴史を見誤ることにもつながる。

 近世の、特に都市部においては、都市開発や自然災害、また「えた村」自身の人口増加などさまざまな理由から、その移転や空間的拡大がしばしば行われた。

 近世の京都の基礎をつくった秀吉の京都大改造は、刀狩りや武士が百姓・町人になることの禁令など身分を峻別・固定する施策の、都市開発・空間編成に対する投影であった。秀吉はこの事業により、聚楽第を中心にした武家町、禁裏を中心とした公家町、寺院街である寺町や町人の居住地区などをつくっていったが、この中で、たとえば京都最大のえた村であった余部村は、四条新京極の四条道場金蓮寺の南から三条川東へと移転している。

 えた村の移転は、江戸時代に入ってからもつづいた。崇仁のルーツのひとつである六条村は、寛文3年(1663)に六条河原に建て家を許されたところに始まるが、これも東方稲荷町や河原町松原上からの移住によって成立したものだった。そして宝永4年(1707)には移転の話が持ち上がり、早くも正徳4年(1714)にはこの地から七条通南の地へ移転している。六条河原にやってきて、わずか50年余りしか経っていなかった。

六条村の変遷  江戸時代は全体的にはほとんど人口増加のない時代だが、えた村の人口は全国平均でも2〜3倍の増加があった。特に都市部のえた村の人口増加は著しく、移転完了時(1714)の六条村の人口は789人だったが、そのわずか17年後には400人近い増加があり、この傾向はその後も続いた。

 この発展を支えたのは、村の皮革業による経済力であった。皮革業は従来は武具などのつくる軍需産業であったものが、江戸時代の中期以降履物関連などの民需産業への変換をとげ、この頃隆盛するに至っていた。六条村は人口増加の圧力に押され、またその経済力でもって新村開発に当っていく。六条村の南に享保16年(1731)開かれた銭座跡村がそれである。しかしこの大きな土地も、増え続ける人口によって100年も経たぬうちパンクすることとなった。まず六条村の東へ拡大が行われ、その後には六条村の西に大西組開発された(1843〜)。








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