6 米軍撮影航空写真




<当館蔵>1946(昭和21)年
この写真は、終戦直後の京都市街を、米軍が航空撮影したもので、鉄道(東海道線・奈良線)や幹線道路の両側が防空空地となっており、白く浮かび上がって見える。
昭和12年に制定された防空法には元々、市民の土地・家屋の収用や撤去に関する条項は含まれていなかった。二度の改正を経て昭和18年に「建築物ノ分散疎開」を図るための建築禁止・制限規定が盛り込まれた。
こうして、空襲による火災を食い止める防火線として、都市部の建物密集地域の家屋を総撤去し、防空空地(疎開空地)や空地帯(疎開空地帯)が設けられていった。
なお五条通・御池通・堀川通といった幹線道路は、この防空空地跡を利用して、現在のように50メートル幅の道路に拡幅された。




<当館蔵>1953(昭和28)年
本図は、戦後の崇仁の状況を伝えるもので、昭和14年の地図と比べれば、線路両側の広大な範囲で、家屋が無くなっていることがわかる。
東海道線・奈良線の両側に作られた「防空空地」は、いわば崇仁の中央部に大きな風穴をあけるがごとくであった。終戦直後からしばらくは広大な空地が広がっていたが、この頃、京都駅近郊の地ということもあり、住宅不足等から多くの転入者がこの空地にバラックを建て始めた。バラック建造は線路沿いに広がっていき、瞬く間に「スラム」が出現した。



7 崇仁地区平面図

8 崇仁地区疎開跡整備計画実施要項




<京都市蔵>1953(昭和28)年
この資料は、1953年(昭和28)に作成されたものであり、崇仁地区についての環境改善のための事業としては戦後最初のものである。この事業は、改良住宅用地・区画整理事業用地を確保することを目的に計画された。
ここにいう「疎開跡」とは、「建物疎開」によって生じた東海道線・奈良線の両側に作られた「防空空地」のことである。戦後最初の事業が、用地を確保することから始められなければならないほど、この時「防空空地」は「急速にスラム化の傾向」をたどっていた。


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