9 東海道線沿いのバラック




<京都部落史研究所蔵>1950年代後半
この写真は1950年代後半、東海道線南側(崇仁南部)を撮影したもの。
鉄道沿いの「防空空地」跡には、終戦直後からしばらくは広大な空地が残っていた。しかし、京都駅近郊の地ということもあり、多くの転入者がこの空地にバラックを建て始めた。バラック建造は線路沿いに東へと広がっていき、やがて崇仁東端の鴨川へと行き当たった。





1950年代後半
この写真は映画『人間みな兄弟』<部落問題研究所製作>より転写したもので、1950年代後半に東海道線から南側の屋形町南部を撮影したものである。このようなバラックが押し合うように密集し、鴨川河川敷に沿って南へ、崇仁から東九条まで広がっていた。
1959(昭和34)年、京都都市計画審議会は、東七条(現崇仁地区)南部地域ヘの公営住宅建設案を可決したが、その時鴨川堤防のバラックも立ち退かせることが計画に盛り込まれた。




10 国鉄・東海道線から鴨川河川敷を見る

11 「希望の家」ディフリー神父、屋形町を訪れる




<希望の家蔵>1952(昭和27)年
この写真は、アメリカのカトリックの海外宣教会(メリノール会)から日本に派遣されていたフランシスコ=ディフリー神父が、京都九条教会に赴任した直後に屋形町を訪れた時のもの。
当時、そこには、崇仁、東九条にまたがって、高瀬川のほとり、鴨川の土手、国鉄奈良線の敷地にと、ぎっしりバラックが建ち並び、火災でも発生すれば短時間で焼き尽くされる、極めて危険な状態にあった。ディフリー神父は、情熱の人であり、この地に自らを捧げる決心をした。彼の情熱と忍従の活動が、地域の人々の心を動かし、後に「希望の家」として実を結ぶ。



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