3 五条河原新家開町割絵図写




本図は、1714年(正徳4)に作成されたものである。六条村が南側に移転する直前のもので、移転する前の六条河原には「穢多村跡新家」と記載されており新地の計画を示していると考えられる。
[京都府立資料館蔵 書絵図、極彩 87.6×58.3 1714年(正徳4)]



本図は、六条河原に「新家」が開発された様子が示されている。また船入が六条村も含め西側に3ヶ所にわたり丁寧に描かれている。その西側の「お土居」も完全な姿で描かれている。この一連の絵図は、六条村と高瀬川の関係を示し、中世後期の六条村が近世の村へと変わっていく経過がよくわかる。
[京都府立資料館蔵]




4 六条・七条新地絵図

5 六条村替地測量図




 本図は、六条河原から六条村が移転直前の1713年に替地場所の測量の際に作成され現代でも通用するものである。
 諸式留帳によれば、六条村は、1707年(宝永4)に妙法院から、七条通り南側の地に移転を命じられた際に、倍の広さの替地と移転料銀500貫を条件に承諾したが、替地が低地であったため3尺の築地上げの要求を行い、妙法院が土入れを行ったと記されている。
この地は高瀬川に囲まれており、現代的な言葉で言えば「水辺の空間」である。高瀬船が行き交う都の入口であった。
[今村家蔵 91.5×65 1713年(正徳3)]

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