近代編〜かわる高瀬川

6 内浜図




この図は、法務局に保存されていた地籍図よりおこされたものであり、明治27年以前の内浜の正確な大きさや位置を知ることができる数少ない資料である。
 内浜は、現在の七条通り付近に東西三丁(約330m)にわたる掘割りをつくり、船溜場や荷揚場、材木の貯木場として使用したものである。今も残る「材木町」や「納屋町」といった地名はその名残である。
 御土居の外を流れる高瀬川の荷揚場(舟入、浜)は本来すべて「洛外」に位置するが、枳殻邸の開発により御土居、高瀬川とも東へ付け替えられるようになったため、この浜は唯一御土居の内側(洛中)に位置することとなった。「内浜」の名はここに由来する。
 しかしこの内浜も、明治10年にできた七条停車場(現在の京都駅)によって次第にターミナル機能を奪われてゆき、ついには路面電車軌道の敷設のため大正元年(1912)頃埋め立てられた。




 この地図は、迅速測図法により軍用図として作成されたもので、近代的測量法によって作られたものとしてはこの付近の様子がわかる最古のものである。
 当時の京都駅は現在よりも北の位置にあった。明治13年に完成した京都と大津を結ぶ鉄道も今よりも北を通っており、現在の正行院(さる寺)の北側から現在の下之町西部を抜けて現在の屋形町から鴨川を渡っていた。現在の高倉通高架の東側辺りを通っていた高瀬川は、この鉄道を避けるために、現在の下之町西部付近に東へふくらむように流路の変更がなされた。これは鉄道と交差する部分をできるだけ東にすることで、線路の下を高瀬船がくぐり抜けることができるようにするためであった。




7 二万分の一仮製地形図(明治22年測量 明治25年刊行)


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