8 京都電車と高瀬川(明治30年頃)




 この写真は高瀬川と並走する路面電車(京都電気鉄道)である。
 明治3年(1870)より旅客用としても使われ出した高瀬船は毎日定時に京都(四条小橋・七条小橋)と伏見の間を運行し、また淀川蒸気船と連絡することで京都〜大阪をも結んでいた。しかし明治28年に開業した路面電車「京電」はやがて伏見をも結び、淀川汽船との間に連絡切符を発行するなど、高瀬川の水上交通に強力なライバルとなった。
 明治43年(1910)にはもうひとつの電車、京阪電鉄が五条〜天満橋間を開通し、京阪間の水上旅客は役割を終えることとなった。





この地図は、大正3年に行われた高瀬川付替工事の平面図である。
 奈良鉄道、京都鉄道の接続により、旅客量・貨物量の急増した京都駅は、構内・駅舎ともに手狭となり、新しい京都駅の建設が計画された。京都駅は現在の場所へ移築され、それに伴い東海道線も南へ新たに敷設し直されることなった。またも、鉄道を避けるために、高瀬川は流れをかえることになったのである。
 この工事により、高瀬川は、隣保館北側から屋形町から東九条へと流れる現在のルートをとることとなった。




9 高瀬川附替工事平面図 (大正3年)

10 高瀬川の舟曳き(明治44年頃)




 この写真は、七条通り北側(七条小橋付近)で、高瀬川の舟曳きを撮影したもの。
 高瀬川は狭い川幅を有効に使うため、午前は京都へ運び入れる上り便、午後は京都から運び出す下り便と、一方通行制をとっていた。上りの際、船につけられた綱を「曳き子」数人が「船頭道」と呼ばれる川沿いの道を「ホイホイ」という掛け声をかけながら上っていく風景は、名所図絵などにも描かれる京都の一名物だった。
 近世には巨大な消費都市京都を支えるため、船の輸送も移出よりも移入の方が多かったが、明治以降、移出が移入を上回るようになり、輸送量自体の減少もあいまって舟曳きの光景も次第に見られなくなっていった。大正9年6月には、高瀬川舟運はその長い歴史の幕を閉じ、高瀬川は運河としての役割を終えることとなった。



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