〜柳原銀行と明石民蔵〜

明石民蔵 
1856年(安政3)4月7日〜1920年(大正9)6月6日

 山城国愛宕郡柳原荘内銭座村―後の京都府紀伊郡柳原町(現・崇仁地区)―に生まれる。

 幼少の頃は不明だが、履歴書によると、18歳で地租改正丈量事務に従事し、村会議員等を経て37歳の時、柳原町長に当選している。

 明治維新後、衰退する町を自らの資本と力で産業を発展させ、部落の解放を成し遂げようとの情熱から合資会社柳原銀行を創設にあたった一人であり、その後初代頭取として手腕を振るった。事業家としても意欲を燃やし、京都皮革株式会社や大正皮革調帯株式会社を設立した。

 さらに自主的改善運動のリーダーとして活躍。部落民主体の運動体の結成をめざして、1913年(大正2)に柳原同志会を組織、また大和同志会の機関誌『明治之光』のスポンサーでもあった。1914年(大正3)、再度町長に就任(1915年12月勇退)。

 晩年の1918年(大正7)、愛宕郡田中村の田中親友夜学校教育補助頼母子講が経営難に陥った際、明石はその整理に当たり全財産を失った。この不幸にも関わらず、翌年同情融和大会に出席。差別語使用禁止などを内務省、陸軍省、文部省等へ陳情、京都府議会にも南梅吉(全国水平社初代執行委員長)らと部落改善費を請願し、最後の力を振り絞った。


1.明石民蔵履歴書(京都市蔵)
1914年(大正3)

 1914年(大正3)9月4日付作成。

 同月16日に明石民蔵は、2度目の町長に就任しているが、その折りに書かれたものか。

 1875年(明治8)3月に18歳の明石民蔵が丈量事務に従事したことは、他の史料にはなく、注目される。

 地租改正にともなって土地の測量と評価をする丈量事務は、高い技能と知識を必要とする職務で、青年期の彼に対する村内の高い評価の一端を示している。












明石民蔵のプロフィール(1856年〜1920年)
西 暦 年 号 月・日 特 筆 事 項 年齢
1856年 安政3 4月7日 柳原荘・元銭座村に生れる。
1875年 明治8 3月 地租改正の時、丈量事務に従事する。 18才
1884年 明治17 5月 初めて村会議員となる。 28才
1889年 明治22 4月 柳原荘は紀伊郡に編入され柳原町となる。 32才
1893年 明治26 4月 初めて柳原町長となる。 38才
1898年 明治31 5月 町内に「改良同盟期成会」をつくり、教育・衛生の普及や風俗の改善などに努力する。 42才
1899年 明治32 6月 柳原銀行を作り、町内の産業育成や改良事業に努める。 43才
10月 初めて郡会議員となる。
1903年 明治36 7月 「大日本同胞融和会」の全国大会に、発起人の1人として参加する。 47才
1907年 明治40 6月 柳原銀行の新しい本社建物を建てる。 51才
1911年 明治44 1月 京都皮革株式会社をつくる。 55才
1912年 大正1 8月 「大和同志会」の創立大会に参加する。 56才
11月 内務省主催の「細民部落改善協議会」で発言。職業差別や度重なる差別事件などを批判する。
大正皮革調帯株式会社をつくる。
1913年 大正2 3月 「京都府同志会」を作ろうと府下に激を飛ばす。
1916年 大正5 3月 柳原小学校で「関西同志懇談会」を開く。 59才
1918年 大正7 3月 田中村の頼母子講不正事件を解決した際、全財産を失う。 61才
4月 柳原町が京都市に編入。 62才
8月 米騒動が起きる。
1919年 大正8 2月 「同情融和大会」で全国の部落を代表して挨拶。
3月 全国の部落代表とともに国会へ。「部落改善に関する請願」を提出する。
1920年 大正9 6月6日 死去。享年64才

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